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ヰくしー




物心ついたのちに初めて海外に行ったのは、大学生の時、中国だった。

大学の所有する船に乗って、100人近い学生団が海外を訪問する「海外研修航海」に参加して訪れた上海、青島、天津・北京、大連。

1993年の2月から3月。私は21歳だった。

20世紀終盤の上海は、建設ラッシュで、香港映画で見るような木や竹で作った足場がそこここに組まれ槌の音が響いていた。

道端では、ドラム缶みたいな鍋に、スープなのだかおかゆなのだかよくわからないものをかき混ぜて、売っている初老の女性がいた。

地図を広げて行先を確認していると、周囲にひとがわらわらと集まって、一緒に地図をのぞいてきた。

とにかく空気全体が雑然として煮えたぎる、それにつられて自分の血流まで沸騰するような、そんなマグマを感じる地だった。

大学生だった私たちは、全身でその地熱を感じ、喧騒の中に、3週間を過ごした。

最後の寄港地、大連から出港するとき。

大学の船に並走していた、水先案内のはしけのスピーカーから、なまりのある日本語が一言、流れてきた。

「サヨナラ」

3週間近く、「再見(ツァイチェン)」と交わして生活してきた私たちへの、久々の日本語での別れの挨拶。

それからゆっくりと、はしけは港へ戻っていった。

その瞬間、問答無用で涙があふれた。

とてつもなく広い大陸の、私たちが廻ったのは、ほんのつま先ほどの一部の地域でしかなく、触れたものは、この国が、人々が抱えてきた歴史のうねりの、瞬きにすらならない微細な時間。

なのに、大きく包み込まれてきたものから、強引に引きはがされるような、気持ちの半分がはぎとられるような焦燥が、私に涙を流させた。

以来。

社会人になってからも、旅行で、数年に一度は中国に行った。

初級漢語(中国語)の勉強のために、1週間の短期留学に行ったこともある。

中国語の聞き取りは本当に難しいけれど、あの言葉の「旋律」や「発音」が、私はとても好き。

旅行や留学は、すべて飛行機で行ったのだが、空港に着くたびに、中国独特のにおいが確実にあって、

その匂いの中に降り立つたびに、私は「ああ、帰ってきた」と思うようになった。

もしも転生というものがあるならば、私のそのうちの1回には、絶対に中国での人生が組み込まれている。

それが確信できるほど、強く、「帰ってきた」と思うのだった。

そういえばこのころ、映画「ラストエンペラー」をビデオ(というものがあったのだよ、昔は)で観ていたら、体に電流が走った。

物語の後半だったと思う。

文化大革命のさなか、紅衛兵が行進しながらたぶん毛沢東をたたえるシーンで、突然、

「私は、これを聞いたことがある!」と愕然としたからだ。

そして、私は自分の前世は、文革のころの中国にあったのではないかと思い始めた。

だから、いつでも中国に行くたびに「帰ってきた」と感じるのだと。

一度、勤め先の大学の、学生の短期留学の引率として、1か月、北京の大学に滞在した。

「北京秋天」のすばらしさが全身で実感できる、9月だった。人生最高の、最上の、1か月!

学生と一緒に、朝の太極拳体験に行き、学食で朝粥と揚げパンを食べ、淡いブルーの空の下に柳の揺れるキャンパスを往来し、私はここで27歳を迎えた。

1か月間の留学の最終盤に、キャンパスの片隅にある売店へ、いつものように買い物に行った。

ちょっとしたおやつや、文房具や、飲み物を買うキオスクみたいなところだ。

そこの店番の、10代半ばくらいのリンゴ色のほっぺたをしたお下げ髪の少女とは、1か月の間に顔なじみになっていた。

「私は、あと数日で、日本に帰ります」

その日、支払いをしながら、そう告げた。

彼女は、おつりを出しながら、聞いてきた。

「そう・・・。次はいつ、北京に来るの?」

言葉に詰まった。中国語ができなかったからじゃなくて。

いかにも「また会えるよね」という風情で尋ねてくれた彼女に、私は答えられなかったからだ。

「わからない。もう来ないかもしれない」

と、私の少ない語彙で答えるのが、精いっぱいだった。この時も、突然、涙が出た。言葉の代わりに、涙が出て、私はようやく「再見」とだけ言った。

また会いたい、という意味を込めて、再見と言った。

旅行では、観光が主だったけれど、いろいろなところを訪れた。

敦煌では、ホテルの浴槽にサソリがいた。

桂林での桂花茶の香りは、いまでも思い出してうっとりするほどだ。

高級店の北京ダックも、西安の餃子コースも、屋台で食べる雀の丸焼きも、豫園商場のゴマ団子も、北京大学の卵スープもじゃがいものニンニク炒めも、とにかくおいしかった。

ひとりで行った「人民大会堂」では、外国人ではなく中国人のためのチケット窓口に並んで、国民用の入場料で見学した。ごめんなさい。

北京市内から郊外の宿泊場所へ戻る途中、手元にお金があまりなく、タクシーのメーターがどんどんあがるのを見ながら「これしかお金がないから、ぎりぎりまで行って途中で下ろしてくれ」と交渉したこともあった。

運転手さんは、ちょっとおまけして、近くまで連れて行ってくれた。ありがとう。

友人数人と行った北京郊外の公園で、不注意からビデオカメラの置き引きにあって、近くの警察に駆け込み、片言の中国語と英語で説明して、ようやく本署まで連れて行ってもらって、日本語のわかる警察官が出てきてくれた時には、腰が抜けるほどに安どした。

余談だが、このときに最初に駆け込んだ派出所のおまわりさんがやけにハンサムで、本当に俳優さんにならなくていいの?って思うくらいイケメンで、お互い通じない中国語や片言の英語でやりとりしながら、私は歯ぎしりをしていた。「どうして失くしてしまったのが、よりによってビデオカメラだったのだろう!!」と。

本来、こういうハプニングを録画しておくために活躍するのがビデオカメラなのではないか! 

しかも、まさに、今そこにいるイケメンを、撮影してこそのビデオカメラだろう!!と! 

ワタクシ、一生の不覚ッ。

ところで。

ちょっと高級なビュッフェなどに行くと、フルーツバーにライチがある。

自分では買うことのない、おしゃれな果物だ。

私はこれが、大好きだ。

言い伝えでは、世界三大美女のひとり、楊貴妃が好んだフルーツだったとか。

・・・ん、そうか!

「中国に帰ってきた」と思う自分の前世は文化大革命のころだと思っていたけど、1971年生まれの私の前世が1960年代の文革だなんて、やけに転生の間隔が短いなとも、思っていたんだ・・・。

実は、私が中国大陸で生きていたのは、前の前の前の人生あたりだったんじゃないか?

となると。

「私の前々前世は、楊貴妃だったんだと思うの」

手と口の回りをべたべたにしてライチを食べながら、私は言った。

私の中国好きを知っている夫は、しばらく黙って、しみじみと私を見てから言った。

「そうだな・・・。楊貴妃の・・・・・・侍女の、友達くらいだったかもしれない」

夫とは、くだんの「海外研修航海」で出会った。

中国大陸の片隅で、3週間をともに過ごした学生メンバーの一人に、いたのだった。

一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍