ベンヤミン著『暴力の批判的検討』

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259時限目◎本



堀間ロクなな


 新型コロナウイルスは人類にさまざまなものをもたらしたが、なかでもとりわけ注意を払う必要があるのは「暴力」ではないだろうか。わたしが言いたいのは、世界各地で生じた都市封鎖など感染防止策をめぐっての大小の暴力沙汰にとどまらず、もっと巨視的な見地から暴力の再定義を強いるような事態が出来していることだ。その端的な実例は、アメリカで新型コロナウイルスへの対応を最大の争点として大統領選が行われたのちに、トランプ大統領の支持者たちが敗北を認めず、バイデン大統領の就任を阻止しようと連邦議事堂に乱入して死傷者まで出したあげく、結果的に速やかな政権移行を実現させたという事件に他ならない。



 この前代未聞の悲喜劇が露わにしたポイントのひとつは、民主主義の根幹をなす選挙において敗者とされたほうが受け入れず、みずからを勝者と見なす姿勢を貫徹させようとする場合は、もはや暴力に訴えるしかないということ。もうひとつは、そもそも選挙では相対的に多数の票を得たほうが勝者となり、敗者の票はどれだけ膨大でも意味を失い、そこに込められた意思が抹殺されるという意味で、やはり暴力の装置であると明白になったことだろう。むろん、こうした事情はずっと人類が引きずってきたものだけれども、わたしの目には新型コロナウイルスが触媒となって改めて鮮やかに炙り出されたように映る。



 「暴力の歴史の哲学」の重大性を唱えたのはヴァルター・ベンヤミンだ。第一次世界大戦後の敗戦国ドイツで、政情不安のもと階級闘争が激化していくのを目の当たりにして執筆された『暴力の批判的検討』(1921年)は、そうした特定の時代状況を踏まえて分析しながら、人類の歴史を通じて暴力の哲学が普遍的な課題であったことを摘出してみせる。ちょうど100年が経過した今日でも、その議論が示唆するところは大きいと思う。



 ベンヤミンは人類の法秩序のもとで、まず暴力を法措定的暴力と法維持的暴力のふたつに大別する。前者は現存の法秩序をリセットして新規の法秩序を構築しようとするものであり、後者はいったん構築された現存の法秩序をサポートしようとするものであり、したがって両者はきわどい相克関係にあると同時に補完関係にもある。こうした観点に立つことで世界大戦を繰り広げる国家同士の暴力も、ストライキから革命へと向かう階級間の暴力も分析できることを示し、ふたつの暴力の相克・補完関係ははるかな神話の時代に由来すると見なして「神話的暴力」の呼称を与える。そのうえで、体系化された神話に対して個々の神が対立するように、「神話的暴力」に対しても「神的暴力」が対立するとして、人類の法秩序を前に「神話的暴力」が血にまみれて相手を殺すとすれば、「神的暴力」はまったく血を流さず命を奪い去ると譬えて、最後にこう結んでいる。



 「あらゆる神話的暴力、すなわち法措定的暴力はしりぞけられるべきものである。この法措定的暴力は、支配する暴力といってよいだろう。また、法措定的暴力に仕える法維持的暴力、つまり管理された暴力も排すべきものである。それに対して、神的暴力は神聖な執行の標章にして印章であり、決してその手段ではない。これは統治する暴力と名づけてもよいだろう」(山口裕之訳)



 これを前述の連邦議事堂騒乱事件に当てはめると、選挙を無効にしようとトランプ大統領支持者たちを突き動かしたのが法措定的暴力で、現存する法秩序のもとでバイデン大統領の政権発足を推し進めたのが法維持的暴力であり、どのみち両者はともに「神話的暴力」を構成しているのに対して、ここまで亀裂を深めたアメリカ社会の分断を乗り越えて和解へと転じるためにどうしても必要なのは「神的暴力」という構図になるだろう。果たして、それは具体的にどのようなものなのか?



 この重い問いは、おそらく日本にも突きつけられているはずだ。遠からず東京オリンピック・パラリンピックの開催の是非について結論を出さなければならないなか、これまでの議論ではっきりしてきたのは、国際的な枠組みのもとで計画された巨大イベントをいまになって中止しようとするのも、また、依然猛威をふるう新型コロナウイルスのパンデミックの状況下であえて開催しようとするのも、ともに暴力ということだろう。すなわち、前者が法措定的暴力、後者が法維持的暴力として、両者の相克・補完関係が「神話的暴力」を構成し、このままではどちらの結論に至っても小さからぬ禍根を将来に残すに違いない。ベンヤミンの議論に学ぶなら、それを乗り越えて人類がひとつとなって新たな合意を見出すためには「神的暴力」が求められるわけだが、さて……。



 ただの言葉遊びだろうか? わたしはそうは思わない。現存する法秩序に囚われることなく、想像力を解き放って目を凝らし耳を澄ませると、決して容易ではないにせよ、きっとその先に「神的暴力」の指し示すビジョンが立ち現れてくるように思う。



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍