松尾芭蕉 著『野ざらし紀行』
「捨子に秋の風いかに」
芭蕉が旅路で見つめたものは
262時限目◎本
堀間ロクなな
戦乱の時代が終わり、世界史にもそうそう例を見ないほど安定した平和のもとで、江戸時代の平均寿命は40歳前後と推定されているそうで、現在と較べると半分程度の長さだったらしい。第一に幼児死亡率の高さによる数値だとしても、死というものがいまよりずっと濃厚な影を帯びて身近にあったことは間違いないだろう。そんな考えをめぐらせたのは、松尾芭蕉の『野ざらし紀行』に衝撃を受けたからだ。
桃青などの名で人気を博していた俳諧師が突如、世間との交わりを絶って、江戸の外れの深川に庵を結んで隠棲したのは1680年(延宝8年)のこと。以後は芭蕉の俳号を用いるようになり、坐禅の修行などに日を送ったのち、40歳を数えた1684年(貞享3年)旧暦8月に東海道を辿って西へ向かう旅に出た。今日の地理で言うなら中部・近畿地方の各処をめぐる行程で、そこには久方ぶりの伊賀上野への帰郷も含まれた。約9か月におよぶこのときの体験をもとに『野ざらし紀行』がまとめられ、題は巻頭の句に由来する。
野ざらしを心に風のしむ身かな
芭蕉にとって初の紀行文の出発点としては、異様な陰鬱さと言うべきだろう。白骨化した髑髏が野っ原で風雨にさらされているイメージからは、まるで生きながら「死出の旅」に赴くかのような境地が伝わってきて、こちらも心乱されずにはいられない。しかし、さらに衝撃的なのは、すぐあとに言及される富士川でのエピソードだ。そのほとりで3歳ぐらいの捨子が泣き声をあげているのを見かけ、袂から食べ物を投げ与えて、一句を詠んだという。
猿を聞く人捨子に秋の風いかに
そして、つぎの文章が続く。「いかにぞや汝。父に悪(にく)まれたるか、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。ただこれ天にして、汝が性(さが)の拙きを泣け」――。そう、芭蕉はこの現実をすべて天のせいに帰して、そのまま哀れな子を見捨てて立ち去ったのだ。後世のわれわれからすれば、いかにも薄情な仕打ちに映るけれど、そこには安っぽいヒューマニズムなど入り込む余地のない態度が窺われる。つまりは、おのれひとりの死を覚悟するだけでなく、この世のありとあらゆる死を見つめて、その不条理とじかに向きあうための旅路だったのだろう。
その後、伊勢神宮に参拝したり、西行の旧跡を訪ねたりしてから、9月はじめに故郷の兄のもとに寄り、前年に逝った母親の形見の白髪を拝んで、一句。
手にとらば消えん涙ぞ熱き秋の霜
こうして数々の死と切り結びながら歩みを重ねて、旅の本来の目的のひとつ、岐阜の大垣で愛弟子が営む船問屋を訪ねた際に、よほど気分がほぐれたのか、かつて出立したときの心象風景を思い起こして「死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮れ」と詠んだ。これを分水嶺として、以降の句はにわかに温もりと明るさを湛えていく一方で、冷徹な叙述に終始してきた地の文は姿を消し、『野ざらし紀行』の後半はもっぱら折々の句だけが並ぶアンソロジーの様相を呈して、そのなかにはわたしが愛好してやまない句も含まれる。
大津に至る道、山路を越えて
山路来て何やらゆかし菫草(すみれぐさ)
すなわち、こういう次第ではないか。40歳を機に生きながら「死出の旅」を志して、現実の死を凝視するうち、みずからも死とひとつになったあとによみがえって再生を果たすプロセスがここに書き留められた記録であり、それまでは娯楽のたぐいに過ぎなかった俳諧が芸術にバージョンアップされたことによって「俳聖」芭蕉が屹立したのだろう。決して過去形のドラマではないはずだ。人生100年時代が標榜される現在、われわれは死を直視することを先送りして、40歳はおろか、60歳、70歳……になってもとかく目を背けているのが実情だけに、芭蕉の句がいまも衝撃をともなって迫ってくるのだ。
『野ざらし紀行』の旅から深川の地へ戻った芭蕉は、翌年の1686年(貞享3年)春、あの最も有名な句を詠んでいる。
古池や蛙飛びこむ水の音
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