ウェス・アンダーソン監督『グランド・ブダペスト・ホテル』

自分史を書くための
貴重なヒントがここに


282時限目◎映画



堀間ロクなな


 「自分史」が静かなブームだそうだ。高齢化社会となって自己の来し方行く末を見つめる時間が長引いたうえに、昨今のコロナ禍による巣ごもり生活がいっそう拍車をかけているものらしい。実際、先だって90歳近い父親のもとへ出向いたら、部屋の棚に「自分史資料」と表書きした段ボール箱が積まれていてのけぞった。どうやらご多分に漏れず、将来の自費出版を目論んでいるらしい。もっとも、そうした資料整理から一冊の本をまとめるまでにはまだかなりの道のりがあるだろう。



 その手の指南書が教えるところでは、まずは現代史年表を手元に用意して、そこにこれまでの人生の歩みを記入する作業からはじめるといいという。なるほど、ぼんやりと霧の向こうにないまぜになっているような過去の記憶が、それによって輪郭を持ってきそうだ。さしずめ、わたしであれば生まれた年に皇太子(現・上皇)のご成婚があり、5歳のときに東京オリンピックが開かれ、10歳のときにアポロ11号で人類初の月面着陸が実現し、11歳のときに三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺を遂げた……といった具合で、けっこうドラマティックな年月を過ごしてきた気がする。もっとも、それは同世代のだれにも共通する体験でしかないだろうが。



 結局、とくにめざましくもない、ありふれた人生を送ってきた身にとっては、「自分史」などと言ってもせいぜい備忘録代わりで、とうてい、ひとさまのお目にかけられるようなものが成り立つはずがない。そんなふうに受け止めていたところ、先日、ウェス・アンダーソン監督の映画『グランド・ブダペスト・ホテル』(2014年)を観る機会があって、いささか考え方を改めた次第だ。確かに、こうした手法を用いれば読むに堪える「自分史」が書けるかもしれない、と――。



 ストーリーをかいつまんで紹介すると、シュテファン・ツヴァイクをモデルにしたらしい作家が、ヨーロッパ東部の国を旅して、現在はすっかりさびれてしまったかつての名門ホテルに泊まり、そこの年老いたオーナーのゼロから思い出話を聞かされる。まだ世界に優雅さの残影がたゆたっていた1930年代のこと、青年ゼロはきらびやかなこのホテルに就職して、グスタヴというコンシェルジュの助手となる。業界で名の知れたやり手のこの人物は、宿泊客のブルジョア婦人に求められれば夜のベッドの相手もするというサービスぶり。そんな顧客のひとりでホテルの所有者でもある老婦人が居宅の城へ戻ったあとに急死したことから、グスタヴとゼロは遺産相続の争いに巻き込まれたばかりか、老婦人殺害の疑いでまでかけられて、あの『007』シリーズさながらの大活劇が繰り広げられる……。



 ことの成り行きにより、ふたりの周囲にはおびただしい暴力や殺人が氾濫するものの、それらはウィットとユーモアのオブラートにくるまれて、まるでウィーン菓子のように上品な味わいを醸しだす。しまいには愛すべきグスタヴも、にわかに台頭したナチス・ドイツの親衛隊を思わせる連中に捕まって銃殺されてしまうのだが、そんな悲惨な結末さえ、いまやすべてを受け入れたゼロの含み笑いをもって回顧される趣にはまったく恐れ入ってしまう。ウェス・アンダーソン監督の面目躍如と言ったらいいだろう。



 さて、このチャーミングな映画に学んで、凡人のわれわれでも「自分史」を面白くまとめるためのヒントを挙げてみよう。



◎自分を主役にしない。これまでの人生で出会った年長者のなかで、いちばん魅力があってエピソードの豊富な人物Xを選びだして、主役に据え、そうやって組み立てたストーリーのもとで自分を語っていく。

◎もちろん人物Xの伝記ではないのだから、そこは都合よく振り付けて、多少の粉飾を交えてもかまわないだろう。絵画に譬えれば遠近法の基点に人物Xを置いて、その構図のもとにあくまで自分を引き立てる。

◎つねにウィットとユーモアを心がける。たとえどのような話の運びになろうとも、人物Xへの敬意は忘れず、後味が悪くなるような記述は避けなければならない、ひとさまのフンドシで相撲を取る以上は。



 多少とも参考になったろうか?



 ついでに、もうひとつアドバイスを。そもそも「自分史」などにいそしむ必要があるのかどうか、よく考えたほうがいいかもしれない。ハリウッドの大スターとして君臨し、私生活では数々のスキャンダルを振り撒いて、2011年に79歳の人生をまっとうしたエリザベス・テイラーは、晩年に回顧録の執筆を求められるとこう答えたという。「冗談じゃないわ。私はまだ回顧録のネタをつくっているところよ」―-。見習いたいものだ。



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とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍