チャイコフスキー作曲『白鳥の湖』
悪魔の娘
オディールとはだれか
296時限目◎音楽
堀間ロクなな
プリマ・バレリーナの森下洋子が読売新聞紙上で「踊り続けて70年」と題して連載中の自叙伝を読んでいて、思わず「わっ」と声を挙げてしまった。彼女が25歳のときにバルナ国際バレエコンクールに出場して日本人初の金賞を獲得したエピソードのなかで、最終の決戦で踊った『白鳥の湖』の「黒鳥のグラン・パ・ド・ドゥ」について、こんなふうに語っていたからだ。
「踊ったオディールという役は、主人公のオデットと見まごうほど内面に強い輝きを持っています。その真の美しさ、すなわち、純粋な強さや心の中から出てくる透明な美しさが伝わるように踊りました」
この発言の意味を明かすにはいささか説明が必要だろう。
実は、わたしは世に『白鳥の湖』の隠れファンが思いのほか多く存在するのではないかと睨んでいる。あの弦とハープの伴奏にのってオーボエが奏でる「白鳥」のテーマは、年端のいかない幼児だって知っているくらいの有名な旋律だから、いい歳をしていまさらこの音楽を聴くたびに胸かきむしられるような感動の疼きに襲われる、とはとても恥ずかしくて口にできない。そんなナイーブな感性の持ち主が、中高年男性のクラシック・ファンにけっこう見られるように思う。かく言うわたしを含めて――。
バレエの代名詞とも言うべき『白鳥の湖』の、肝心のストーリーは案外流布していないかもしれない。それには事情がある。「バレエはまさに交響曲と同じ」と言うチャイコフスキーが力を注いだ計30曲にもとづくこの作品は、初演時にはさほどの成功を収めず、作曲者没後の1895年にサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で著名な振付師マリウス・プティパらが行った蘇演によって広く知られるようになった。その際、楽曲の譜面や配列ばかりでなくドラマの運びにも大きく変更が加えられたため、以後もさまざまなヴァージョンが入り乱れて、もはやストーリーをひと口で要約できないありさまなのだ。
そのうえでアウトラインを素描するなら、第1幕では、ドイツの宮殿で王子ジークフリートの成人を祝う宴が催され、母親の王妃が明日の舞踏会で結婚相手を決めることを宣言すると、王子は憂鬱な気分でひとり森の湖へ出かける。第2幕では、月光に照らされた湖で、王子は1羽の白鳥が美しい乙女に変わるのを目にする。彼女はオデットという名の王女だったが、悪魔ロットバルトのせいで昼間は白鳥の姿にされてしまい、この呪いを解くには男の捧げる永遠の愛が条件と聞いて、王子はそれを果たすことを誓う。第3幕では、翌日、宮殿の舞踏会で各地から訪れた花嫁候補の踊りに王子が目もくれずにいると、悪魔が娘のオディールを連れてきて、そのオデットと瓜ふたつの乙女の「黒鳥」の踊りに魅せられた王子は結婚を申し込んだあとで、悪魔の策略と知る。第4幕では、王子は森の湖でオデットに向かって誓いを破ったことを告げ、そして――。
フィナーレは、絶望して身投げしたオデットのあとを追って王子も湖に沈む悲劇的結末や、ふたりで悪魔をやっつけてから手に手を取って結ばれるハッピーエンドなど、ヴァージョンによってそれぞれだ。しょせん、このヒーローとヒロインは狂言回しに過ぎず、どちらへ転んだとしてもドラマの感興を大きく左右することはない。
かれらに較べると、第3幕だけの登場とはいえ、「黒鳥のグラン・パ・ド・ドゥ」のコーダでは32回連続で回転するグラン・フェッテが最高の見せ場となっているとおり、悪魔の娘オディールの存在感は圧倒的だ。この魔性の乙女を、通常はオデットに扮するプリマドンナが二役で演じることにより、絢爛豪華なステージに、おそらくはすべての女性がうちに秘めているだろう「白」と「黒」の両面の対立が現出するのだ。そうした世界を支えているのが、チャイコフスキーのめくるめく音楽であることは言うまでもない。わたしにとって宝物のようなCDは、アナトール・フィストゥラーリ指揮のオランダ放送フィルが2時間半にわたって演奏した完全全曲盤だ。
かくして明らかだろう。森下洋子がオディールを踊るにあたって「真の美しさ、すなわち、純粋な強さや心の中から出てくる透明な美しさが伝わるように」とは、この悪魔の娘にはおよそ似つかわしくないどころか、ふつうに考えたら「白」と「黒」の対立のドラマをぶちこわしにしてしまう発想のはずだ。その向こうにある真の美しさはだれもが知るのではない、現実のステージに立ってオデットとオディールの両者になりきるプリマドンナだけが出会う境地なのだろう。実際、わたしは35年ほど前に森下の『白鳥の湖』公演を観て、会場の東京文化会館から帰る道すがらずっと涙が止まらなかったことがある。その理由を、いまやっと新聞記事に教えられて「わっ」と叫んだのだ。
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