池田富保 監督『尊王攘夷』
実意を以て交るべきなり、
是を一期一会といふ
354時限目◎映画
堀間ロクなな
迂闊な話である。手前勝手ながら、本年より年賀状を卒業とさせていただくことにした。今後のやりとりはすべからくネットに移行したいとの肚だが、そもそも、ここしばらく本文から住所・宛て名まで業者に印刷してもらって発送するだけという、ダイレクトメールと変わりないやり方で済ませていた。そうしたあるとき、わたしは年頭の挨拶に添えて「一期一会」の四文字をあしらったのだけれど、この熟語が幕末の大老、井伊直弼に由来するものだと知ったのはつい最近のこと。いまさらながら、自分の「めくらへびにおじず」ぶりに恐れ入った次第だ。
その直弼の劇的な生涯についてはあまねく知れわたっていよう。これまで幾多の映画にもなってきたなかで、最も貴重な一作は池田富保監督の『尊王攘夷』だと思う。
理由の第一。日本映画の草創期の1927年に制作されたこのサイレント映画は、同じころの作品のほとんどが失われたか、あるいはわずかに断片が残っているか、といった状況にあって、オリジナル・フィルムの大半にあたる約100分の映像が今日に伝わった。いまでも当時のままに鑑賞できるのは奇跡的といっても過言ではない。
理由の第二。時系列ではこんな関係になる。【A】1860年(安政7年)、「桜田門外の変」で直弼が死を遂げる、【B】1927年(昭和2年)、映画『尊王攘夷』が誕生する、【C】2022年(令和4年)、現在。すなわち、【A】と【B】のあいだは67年、【B】と【C】のあいだは95年の開きがあって、われわれからすれば、この映画は「桜田門外の変」にずっと近接したタイミングでつくられたと見なすことができる。実際の事件が起きたときにこの世にあったひとで、映画の完成時にも生存していた人々はかなりの数にのぼるはずだ。ちなみに、現在から67年前の1955年(昭和30年)といったら、電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビが「三種の神器」ともてはやされる一方で、森永ヒ素ミルク中毒事件が世上を騒がせたころで、当時の雰囲気はいまでも遠いものではないのではないか。そうした意味で、ここに写し込まれた登場人物の立ち居振る舞いや日本各地の風光のロケーションはドキュメンタリーと呼ぶに近く、もはや再現不可能で、映画自体が歴史的な記録といえるだろう。
理由の第三。この作品によって日本人は初めて、将軍・大名から名もない町人、芸者や雲助までが身分の上下にかかわらず、それぞれ一個の人間として対等に描かれた世界を目の当たりにしたろう。その驚きがどれほどのものであったか、そして人々の心にどれだけのものをもたらしたのか、われわれには想像することさえできない。
映画は、1858年(安政5年)夏、アメリカ合衆国の全権総領事タウンゼント・ハリスがふたたび黒船で訪れ、江戸幕府に強硬に開国を迫るところからはじまる。幕閣たちが右往左往するなかで、大老の井伊直弼(大河内伝次郎)はひとり敢然として開国へと踏みだし、また、重篤な病床にあった将軍家定の後継者問題も関連して、御三家の前水戸藩主・徳川斉昭らと激しく対立する。さらには、尊王攘夷を叫ぶ志士たちに対しては厳罰をもって臨み、「安政の大獄」を引き起こしとことから諸悪の根源と目され、こうして「桜田門外の変」の日を迎えるのだ。
そのクライマックスでは、字幕により、直弼が水戸浪士・有村次左衛門に向かって「思想の疎隔から敵味方と別れ取るべき道こそ異なれど、国家を思ふ誠意には変りは無い」と談じ、「それ程欲しくば予の首を持って行けッ」と告げて雪上に端座する場面が描かれる。もとより、国政の大任を預かる立場でこんな無責任な態度を示すわけがないにせよ、それはサイレントの表現を借りて、おのれの生命を奪う襲撃者との邂逅をあえて風雅の境地に譬えたものではなかったか。直弼はみずから筆を執った『茶湯一会集』の巻頭に、つぎの文章をしたためている。
抑(そもそも)、茶湯の交会は、一期一会といひて、たとへば幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたゝびかへらざる事を思へば、実に我一世一度の会なり、去るにより、主人は万事に心を配り、聊(いささか)も麁末(そまつ)なきやう深切実意を尽し、客にも此会に又逢ひがたき事を弁へ、亭主の趣向、何壱つもおろかならぬを感心し、実意を以て交るべきなり、是を一期一会といふ。
おそらくは政治家としてよりも文人として豊かな才覚に恵まれていたろう、井伊直弼が後世に残した「一期一会」の理念を具現化してみせたこと。それが、この映画を貴重と見なす理由の第四である。
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