村田沙耶香 著『コンビニ人間』
安倍元首相銃撃事件の
キイワードを求めて
412時限目◎本
堀間ロクなな
安倍元首相銃撃事件をめぐる連日の報道に接して、お尻のへんがムズムズするような居心地の悪さを感じているのはわたしだけではないはずだ。7月8日の昼前に奈良県の街頭演説会場で出来した悲惨な瞬間については、テレビが繰り返し映像を流してよくわかっているし、現場で逮捕された41歳の男性容疑者についても、その犯行の動機や方法などの供述内容に首尾一貫したものがあって当否は別にしてわかりやすい気がする。
それにもかかわらずどうにも落ち着かないのは、たぶん、この事件を要約するキイワードが見当たらないからだろう。政治的な犯罪なのは事実としても、これまで使われてきた「暗殺」や「テロ」といった言葉とはズレがありそうだし、「復讐」や「逆恨み」といった言葉も短絡に過ぎてどうもしっくりこない。まして、口の端にのぼりがちな「心神喪失」や「拡大自殺」といった言葉からはほど遠い印象さえ覚える。
さらにもうひとつ今度の事件に特徴的なのは、いち早く世界じゅうが大きな反応を示したことだ。考えてみるまでもなく、アメリカとロシア、中国と台湾……など、現在対立関係にある双方の国からこぞって故人への賛辞と弔意が届くというのは稀有なことだろう。すなわち、あの日、衆人環視のもとで何が起きたのかはわかっているのに、それをどんな言葉で表したらいいか戸惑っているうちに、海外の国々のほうが先んじて事態を受け止めているらしい。それがわれわれの置かれた逆説的な状況ではないのか?
そこで、にわかに思い起こしたのが村田沙耶香の『コンビニ人間』(2016年)だ。破天荒な芥川賞受賞作として話題になり、ミリオンセラーを記録したことは記憶に新しい。もっとも、当時のわたしは安っぽいテレビドラマめいた内容にあまり感心しなかったのだけれど、そんな作品が世界各国で高い評価を受けて多くの言語に翻訳されていると知って、ひどく驚いた。その記憶が忽然とよみがえったのだ。
主人公の「私」は、幼いころより親きょうだいとも学校の先生や友だちとも溶け合わず、ぽつんと浮いた存在で過ごしてきたが、やがてコンビニという場所で生き甲斐を見出せる自分を発見して、36歳のいまもアルバイト店員として働いている。そんな彼女の起伏に乏しい日常を描いた小説がなぜ世界じゅうから大きな注目を集めたのか、あらためて考察するなら、24時間営業の、まばゆい白色灯にあふれ、清潔で、効率的で、人間臭さを感じさせない、平和で、飽食の、このささやかな空間が日本という国の象徴と理解されたゆえではないか。のみならず、ここでだけは環境に適応して過ごしていける「私」の姿に、日本人の典型を見たのではなかったろうか。
そんなコンビニである日、事件が起きる。
一体どうしたのだろうかと客の視線の先を見ると、くたびれたスーツ姿の中年の男性を、皆が目で追っていると気付いた。
彼は店を歩き回り、いろんな客に声をかけている様子だ。内容をよく聞いてみると、どうやら客に注意をしているようだった。靴が汚れている男性に甲高い声で、「ほらあなた、そこ! 床を汚さないでくださいね」と言い、チョコレートを見ている女性に、「あー! 駄目ですよ、せっかくきちんと並んでいるのにぐちゃぐちゃにして!」と叫んでいる。皆、自分が次に声をかけられたらどうしようと、戸惑いながら遠巻きに男性の動きを見守っていた。
これ以上の引用は不要だろう。だれでもきっと身近に体験したことがあるに違いない。とりわけ、新型コロナ禍のもとでは「自粛警察」や「マスク警察」といった形で……。おそらくコンビニが象徴するような社会においては、はっきりと敵と味方を分割したうえでの「テロ」や「暗殺」は起こらず、おたがいのわずかな差違のほうに敏感となり、自己の正当性を証拠立てるために相手に「注意」を迫るという行動原理が働くのだろう。
そう、キイワードは「注意」だ。あのとき、男性容疑者は母親と宗教団体のいびつな関係がおのれの人生を狂わせたことについて、世間と安倍元首相に対し「注意」しようとしたのではなかったか。その「注意」が甲高い声で叫ぶ代わりに、こともあろうに自作の散弾銃を発砲させるというやり方で行われた――。そんなふうに考えると、わたしは多少とも腑に落ちる気がするのだが、どうだろうか?
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