中島 敦 著『山月記』
虎と化した詩人に
欠けていたものとは?
507時限目◎映画
堀間ロクなな
中島敦の『山月記』(1942年)は高校の国語教科書の定番中の定番だったから、どうしたって、そこに人生の正しい教訓を読み取らなくてはならないという態度が広く刷り込まれたように思う。実際、主人公が「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」に翻弄されるありさまは、大方の高校生にとっても他人事ではなく自省を促されるものだったろう。
中国の唐の時代、李徴(りちょう)という秀才が狷介な性格のせいで役人の生活に馴染めず、妻子がありながら仕事をなげうって、このうえは詩人として世に出ようとしたものの思うに任せぬうち、ついに発狂して行方をくらましてしまう。翌年のこと、監察御史の袁傪(えんさん)が出張の途次で人喰い虎と出くわし、それが旧友・李徴のなれの果てと知る場面では、生意気盛りの高校生たちも思わず固唾を呑んだはずだ。われわれだっていつまでも図に乗っていたらバケモノになるのかも……。
だが、草むらにひそんだ李徴は性懲りもなく、これまで自分のつくった詩篇がずいぶんあって一部なりとも世間に知らせないでは死んでも死に切れない、と嘆き、ぜひとも記録してほしいと頼んできた。以降の個所を原文の仮名遣いで引用しよう。
袁傪は部下に命じ、筆を執つて叢中の声に随つて書きとらせた。李徴の声は叢の中から朗々と響いた。長短凡そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思はせるものばかりである。しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次の様に感じてゐた。成程、作者の資質が第一流に属するものであることは疑ひない。しかし、この儘では、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於て)欠ける所があるのではいか、と。
さあ、そこで問題。袁傪の感じた「何処か欠ける所」とは何を指すか? 正解、「人間性の欠如」。おそらく日本じゅうの高校の授業でこんなやりとりが行われたはずだ。確かに、李徴はもうひとつ頼みがあるとして妻子が路頭に迷わないよう計らってほしいと伝えてから、本当はこちらを先にすべきところ自己の詩業のほうを気にかけるような男だから浅ましい獣に身を落とすのだ、とみずから述懐している。とはいえ、こうした「人間性の欠如」を正すことが一流の作品をつくるための条件だろうか? まさか。古今東西、妻子を顧みず自己本位で偉大な仕事を成し遂げた芸術家はいくらでもいるではないか。
中島敦が中国清朝の説話を下敷きにして発表のあてもなく『山月記』を書いたのは、三十路に入って間もないころだった。幼時より秀才の誉れ高く、第一高等学校から東京帝国大学というエリートコースを歩んだが、卒業してみたらさしたる就職先はなく、心ならずも女学校の教師をつとめていた。おのれの才能への自負が揺らぐ一方、持病の喘息の発作に苦しめられ、すでに妻子がありながら先行きに展望を見出せないなかでの執筆だったことを考えると、主人公の李徴に自己を投影していたことは明らかだろう。そんな作者にとって、事態を打開するための自問自答の正解が「人間性の欠如」のわけがない。
李徴はしきりに自分の詩が世間に知られないことを憂えるのだが、詩人たるもの、まずはおのれ独自の詩境を開くことが目的のはずで、世間との関係はそれにともなう手段に過ぎないところ、かれにおいては目的と手段が転倒しているせいで作品の完成度を損なう結果となったと考えたい。そして、中島もまた、自分の内面にこうした転倒が巣食っていることを承知したうえで、そこから脱却するための方策を模索していたのだとすれば全容がまったく異なって見えてこよう。物語の大詰めで、去りゆく袁傪に向かって別れを告げた李徴は、最後にもう一度、丘の上からこちらを振り返るように求める。
一行が丘の上についた時、彼等は、言はれた通りに振返つて、先程の林間の草地を眺めた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、既に白く光を失つた月を仰いで、二声三声咆哮したかと思ふと、又、元の叢に躍り入つて、再びその姿を見なかつた。
人間という存在の矛盾がもたらす凄絶な美。ついに李徴には詠えなかったこの光景を、中島は孤独のなかで『山月記』に刻みつけることによって独自の境地を切り開いてみせたのだろう。かつて高校の授業で出会ってから半世紀が経ち、わたしはいまにして問題の正解がそこにあるような気がするのだが……。
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