ドストエフスキー著『妻への手紙』
文豪に学ぶ
妻への泣き落としを成功させる法
4時限目◎本
19世紀ロシアの、というより、世界文学の代表的な文豪のひとり、ドストエフスキーは1867年45歳にして芳紀20歳のアンナと再婚した。『罪と罰』を連載中のさなか、出版社への借金返済に迫られ、新たな小説を口述筆記するために速記学校から紹介されたのがアンナで、初対面の1か月後にドストエフスキーはプロポーズした。
と、ロマンティックな成り行きで結ばれたふたりだが、ハネムーンを満喫する間もなく、執拗な債権者たちから逃れようと慌しく国外へ向かう。しかし、そこに待ち受けていたのは、ドストエフスキーの異常な“ギャンブル熱”だった。スイスのサクソン・レ・ベンやドイツのヴィスバーデンに繰り出してルーレットにうつつを抜かし、有り金を巻き上げられては妻に送金をねだるという日々――。
実はこうした事情は、ドストエフスキーを看取ったのち37年間を生きたアンナ夫人の死後、その遺品からおびただしい手紙が発見されて明らかになったものだ。そこに残されていた、文豪が夫人に金をねだるために精魂を傾けた文面は、世の亭主族にとってまたとないお手本ではないだろうか。いざ妻に詫びを入れて泣き落としにかける場合の。
ここでは1868年4月4日にドストエフスキーがサクソン・レ・ベンからしたためた手紙(谷耕平訳)を例に、そのノウハウを起/承/転/結に沿って分析してみたい。
起/まずは徹底的に低姿勢で(犬なら腹を見せるつもりで)詫びること。
「愛しいニュータ(妻の愛称)わたしの天使。わたしはすっかり負けてしまった。正午にここへつくと、たちまちもう負けてしまった。ああ、何といったらいいだろう、わたしの、こんなに苦しめている、神のような天使に。アーニャ(やはり妻の愛称)、どうぞ赦しておくれ。わたしはきみの生活をだいなしにしてしまった。それに、わたしにはソーニャ(生まれたばかりの長女)もあるのに!」
承/ついで自分なりの対処の努力をくどくどと際限なく伝えること。
「わたしは指輪を例のところ(質屋)へもって行った。女主人は、指輪をうけとっておきながら、何かとけちをつけてすぐには金をわたさない。今は何ともいえないから、7時までに返事に行く、というのだ。今は6時15分過ぎ。だが10フランより多く貸すとはいわないだろう。うち見たところ、当地の官憲がかの女に金を貸すことを禁じている、それでかの女はびくびくしているらしい。それをわたしに話したくらいだ。わたしは、10フランなどといわずに15フラン貸してくれと頼んで見よう。だが、15フランは愚か……(以下略)」
転/相手がうんざりしてきたころあいを見計らっておもむろに要求すること。
「わたしの天使、100フラン送っておくれ。きみの手もとには20フラン足らずしか残っていないだろう。何か質入れしておくれ。もう賭け事などしはしない。以前、金を送ってもらった時には午前中にうけとった(その時は9時前についた)。うけとるや否やすぐさま発つことができたのだからね。今度も午前中に金をうけとったら、反省するひまも充分にあるだろうから、賭け事には走らないだろう(ルーレットは2時からはじまるのだ)」
結/この手紙を読んで当然相手が示すだろう反応を封じたうえで殺し文句をかますこと。
「アーニャ、わたしの100フランの請求を、狂気の沙汰だなどとおもわないように。決して狂気の沙汰ではないのだから。それからまた堕落だ、などとも考えないように。卑怯なこと、きみを欺くようなことは決してしない、賭け事などやりはしないからね。わたしはただただ誠実でありたいとのぞんでいるのだから」
まったく、『罪と罰』におけるラスコーリニコフの懺悔も色褪せるほどの切実な筆致といえよう。そして、容易に想像がつくように殺し文句の「ただただ誠実でありたい」はあっさり反故にされて、このあとも金を無心する手紙が続くことになる。
1871年4月のある日、アンナ夫人の回想録によると、打ち沈んだ様子の夫に向かって自分のほうからルーレットの話を持ち出し、わずかな有り金を渡して、「どうしてもう一度運試しをしないの、きっと勝つに決まっているわ」と告げたとか。喜び勇んで出かけたドストエフスキーは予想どおりの結末に終わり、このときを最後に“ギャンブル熱”が冷めたという。つまりは、夫人のほうが上手だったのである。
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