ヒッチコック監督『間違えられた男』
これまで体験してきた恐怖が
わたしのこの顔を作っているのか
9時限目◎映画
堀間ロクなな
『間違えられた男』(1956年)は、おびただしいヒッチコック映画のなかでも最も怖い。と言うのも、ヒッチコック本人が冒頭に登場し、観客に向かって、これは事実にもとづく映画なので、これまで作ってきたサスペンスやスリラーの作品よりも、こちらのほうがずっと怖い、と言明しているのだから。
ストーリーは至ってシンプルだ。ナイトクラブのバンドマンが、連続強盗事件の容疑者として逮捕される。当初はすぐに潔白が判明すると考えていたのに、目撃者の証言や筆跡鑑定などの証拠調べはことごとくかれに不利となり、逆に、アリバイを証明してくれるはずの人物は死亡していたことがわかって、こうした状況に妻は耐え切れず精神に異常をきたしていく。ついに裁判がはじまると、陪審員たちはハナからかれを犯人と決めつけて……。
そのバンドマンに扮するヘンリー・フォンダは、この映画の4か月後に公開された『十二人の怒れる男』(シドニー・ルメット監督)にも出演し、こちらでは父親殺しで起訴された少年の無実を明かしていく陪審員に扮している。つまり、冤罪を晴らす男と、冤罪に陥った男の、正反対の役柄を前後して演じたのだ。
こうした観点で双方を見比べてみると、きわめて対照的なところに気づく。『十二人の怒れる男』では、終始表情を変えないヘンリー・フォンダを中心として、ほかの11人の陪審員は少年の無実を受け入れるとともに表情が和やかに変化していく。一方、『間違えられた男』でのヘンリー・フォンダは刑事たちの無表情をよそに、事態が八方ふさがりになるにつれて、暗い翳りが兆し、常軌を逸したような、いかにも犯罪者にふさわしい表情に変じていく。そして、唐突に真犯人が捕まって、かれの無実が白日のもとになるのだが、その表情は醜くこわばったままだ。
ヒッチコックはインタビューで、この映画について「駄作の部類」と断ったうえで、しかし、「わたしなりの思い、警察への恐怖が、かなり強くこめられている」と述べている。19世紀末のロンドンに生まれたヒッチコックは幼いころ、厳格な父親の差し金でしつけのために留置場へ入れられ、以来、終生にわたって警察に対し止みがたい恐怖が植えつけられたという。かくして、『間違えられた男』は1952年にニューヨークで起こった冤罪事件と、ヒッチコック自身の幼児期の留置場体験の、ふたつの事実と恐怖が交錯したところに生み出されたものだった。
わたしは近年、写真に撮られた自分を目にして、そこにいかにも怪しい顔が映っているのを認める頻度が増えてきた。これじゃ、まるで犯罪者の手配写真じゃないか! と、そんな思いを抱いたことは、どなたもあるのではないだろうか?(それからすると、毎朝、髭剃りで対面する鏡のなかの顔にそこまでの違和感を覚えないのは、動体視力が補正してくれているのかもしれない)
たんに加齢による顔面筋の衰えだけが原因ではあるまい。これまで体験してきた大小の恐怖がそこに刻まれ、積み重なって、こうした表情になったのだろう。たとえ、のちに誤解とわかって恐怖の念を解消できたとしても、いったん顔に沈殿した表情はもとに戻らない。わたしは否応もなく、わが恐怖の記録をさらして最後の日まで生きていかざるをえないとしたら、それこそ何より怖いではないか――。と、この映画のラストシーンに身震いした。
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