モーツァルト作曲『交響曲第40番』

鬼才アーノンクールが
実現してみせたもの


542時限目◎音楽



堀間ロクなな


 われわれは何を求めて音楽を聴くのか? といった問いがあったときに、ふつうに考えると「美」や「感動」と答えたくなるだろう。たとえば、モーツァルトの交響曲のなかでおそらく最も親しまれている『第40番』にしても、その冒頭のヴィオラによる八分音符の刻みが第一主題を導いたとたん、だれしも身構えるはずだ。評論家・小林秀雄の言葉を借りるなら「モオツアルトのかなしみは疾走する。涙は追いつけない」という、魂の震えるような体験と出会うために。実際、ワルターやフルトヴェングラー、ベームなどの往年の大指揮者たちもそれぞれの流儀で「美」や「感動」を聴衆にアピールしてきたと思う。しかし、ここにとんでもない鬼才が出現する。



 ニコラウス・アーノンクール。1929年にオーストリア貴族の伯爵家に生まれ、ウィーン国立音楽院を卒業後、ウィーン交響楽団のチェロ奏者をつとめる一方で、古楽オーケストラ「ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス(CMW)」を創設して、1960年代からエネルギッシュに公演・録音の活動をはじめた。したがって、もっぱらバロック時代のバッハのカンタータやモンテヴェルディのオペラを時代考証に沿って演奏するスペシャリストと受け止められていたろう。



 そんなかれが1980年代になって突如、名門アムステルダム・コンセルトヘボウ管を指揮してモーツァルトの交響曲のCDを発表してクラシック・ファンの度肝を抜く。それもそのはず、くだんの『第40番』でもあえて「美」や「感動」を拒絶したかのようなどぎつい演奏ぶりだったのだ。当時敬愛していた前記の指揮者ベームが「モーツァルトへの虐待だ」と批判したこともあり、以後、わたしにとってその名前は存在しないのも同然となった次第。ところが、最近、かれが晩年の2012年に今度は手兵CMWと再録音した『第40番』を耳にする機会があって、意外にもすっかり打ちのめされてしまったのである。これは一体、どうしたわけだろう?



 アーノンクールは著書『古楽とは何か 言語としての音楽』(1982年)のなかで、18世紀以前のヨーロッパ音楽は修辞学の伝統にのっとった「音による対話」として機能していたものが、今日では伝統が破壊されて堕落してしまったことを嘆いている。その理由をつぎのように論じるのだ。樋口隆一・許光俊訳。



 音楽が単なる美に、そしてそれとともに皆が分かりやすいものへと身を落としたのが、フランス革命の時代であったというのは偶然ではない。〔中略〕ただ美しいと感じることがすでにすべてである、というのである。したがって誰もが、音楽の価値と演奏を判定する権利があり能力があると感じている。こうした考え方は、革命以後の音楽には通用するかもしれないが、それ以前の音楽にはけっして通用しないのである。



 つまり、こういうことだろう。自由・平等・博愛の理念に立ったフランス革命を分岐点として、われわれ一般大衆が音楽に「美」や「感動」の尺度を持ち込んだことで堕落させた、と真っ向から断罪したいらしいのだ。その論調にはあたかも革命によって歴史の表舞台を追われた貴族階級の血のたぎりが感じられて、わたしなどはいっそ潔さを覚えてしまうのだが、それはともかく、モーツァルトに関してもこう喝破してのける。



 私が考えるに、革命前の音楽をわれわれがまったく理解できない理由はまさしくそこにあるのだ。もしもモーツァルトを単に美しいだけのもの――おそらく通常はそうだと思うが――に単純化してしまうとしたら、われわれはモーツァルトをモンテヴェルディと同じくらい理解していないことになるのではないか。われわれは享受するために、美によって呪縛されるために、モーツァルトへと向かう。特に〈美しい〉モーツァルト演奏について述べる文章には繰り返し、新たな〈モーツァルトの幸福〉が書かれている。〔中略〕モーツァルトの同時代人たちは彼の作品を極端なコントラストに満ち、色彩が強く、扇情的で、衝撃的だと述べている。当時の批評にしてもそうだ。いったいどうすれば、そうした音楽を〈幸福〉だの美的享受だのに単純化できるのであろうか。



 かくて、アーノンクールはモーツァルトの音楽を復元するための戦いに立ち向かってきた。すなわち、たんに「美」や「感動」に安住するのではなく、あくまで「極端なコントラストに満ち、色彩が強く、扇情的で、衝撃的」な本来の姿のままに――。そうしたアナクロニズムともいえる挑戦がいまにして強烈な説得力を持つように感じられるのは、もとよりかれが生涯を賭した研鑽の積み重ねの成果であり、また、この間にわたしのような聴き手が多少寛大になったせいでもあろう。しかし、決してそれだけが要因ではないはずだ。21世紀の人類社会がもはや自由・平等・博愛の理念を見失い、音楽においても「美」や「感動」だけでは成り立たない時代に突入してしまったからではないだろうか?



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍