吉田修一 著『悪人』
なぜわたしは
ゴキブリ退治が苦手なのか
571時限目◎本
堀間ロクなな
ゴキブリ退治が苦手だ。念のため、苦手なのはゴキブリではなく、ゴキブリ退治のほうだ。背後の妻から丸めた新聞紙を渡されて、キッチンの床の黒光りする昆虫を追いまわしながら、とめどないジレンマが込み上げてくる。生きとし生けるものの命を奪うことは罪悪とする仏教の教えも作用していようが、それ以上に、われわれ人間だってちょっと距離を置いて眺めればさほどゴキブリと変わらないのでは、という思いがあるからだ。
吉田修一の『悪人』(2007年)も、そんなわたしのヘソ曲がりの人生観を強化した小説のひとつだ。朝日新聞の連載後、大ベストセラーを記録し、妻夫木聡・深津絵里主演の映画(2010年)もヒットしたこの作品について、あらためてつぶさにストーリーを説明するまでもないだろう。
福岡と佐賀の県境にある国道263号の三瀬トンネル付近で女性の遺体が見つかる。男たちを意のままに操ろうとしながら被害者となった保険外交員・石橋佳乃、事件当日に彼女を福岡市内の公園から車に乗せてドライブに出かけた遊び人の大学生・増尾圭吾、また、自分を呼び出した彼女と現場で遭遇して心ならずも絞め殺してしまった解体作業員・清水祐一、その犯人と出会い系サイトで知りあって逃亡に同行する紳士服店の販売員・馬込光代……。さらには、かれらを取り巻いて、それぞれに小さな悪や大きな悪を抱え込みながら蠢く有象無象の「悪人」たちのありさまが、わたしの目にはゴキブリの群れのごとく見えてくるのだ。
たとえば、被害者・石橋佳乃の実家の両親のもとへ、赤の他人からファックスや手紙が引っきりなしに送られてくる。
「売女の娘が殺されて悲しいか? 自業自得」
「俺もお前の娘買いました。一晩五百円」
「あんな女、殺されて当然。売春は違法です」
「仕送りしてやれよ!」
その一方で、つぎのような情景が描かれる。犯人の清水祐一とラブホテルを転々とする逃避行のなかで、馬込光代は初めて男とのあいだに心身の交流を経験し、いよいよ警察の手が迫ってくるのを感じ取ると、最後に逃げ込んだ無人の灯台でいきなり「ねえ、一つだけはっきりさせとっていい?」と口火を切った。
「祐一が、私を連れて逃げとるんじゃないんやけんね。私が、祐一に頼んで一緒に逃げてもろうとるんやけんね。誰に訊かれても、そう言うとよ」
光代の言葉をどう理解すればいいのか分からないようで、祐一が眉間に皺を寄せる。光代はまるで自分が別れの言葉を発したような気になって、思わず祐一の胸に顔を押しつけた。
「私ね、祐一と会うまで、一日がこげん大切に思えたことなかった。仕事しとったら一日なんてあっという間に終わって、あっという間に一週間が過ぎて、気がつくともう一年……。私、今まで何しとったとやろ? なんで今まで祐一に会えんかったとやろ? 今までの一年とここで祐一と過ごす一日やったら、私、迷わずここでの一日ば選ぶ……」
おそらく、出まかせの悪口雑言を弄する連中ではなく、この光代のほうに「悪人」の真実があるのだろう。この一日と一週間、一年間を秤にかける、ひいては、この一瞬と人生のすべてを秤にかけて、あえていまこのときのほうを選ぶ。こうした損得勘定の合わない判断は、われわれがふだん理性的に日常を過ごしていくうえで絶対に許されるものではない。しかし、みずからの実存を賭したぎりぎりの局面で、あえて狂気じみた非日常へと一歩を踏みだしたときに、ひとは「悪人」と化すのではないか。
そこにある哀しさといじらしさ、この期におよんで自己の欲望に執着しようとするしぶとさにこそ、わたしはわが家のキッチンに出没する黒い昆虫を重ねあわせたくなるのである。のみならず、親鸞聖人が「善人なおもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや」と断じてのけた、その「悪人」の姿までも――。
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