セシル・B・デミル監督『サムソンとデリラ』
イスラエルとガザが
舞台の狂おしい恋愛劇
573時限目◎映画
堀間ロクなな
往年のスペクタクル史劇、セシル・B・デミル監督の『サムソンとデリラ』(1949年)が、現代のCG技術に馴染んだ目には子どもだましの映画のように映るのも無理ないのかもしれない。しかし、わたしは最近久しぶりに鑑賞して、それはまったくの見当違いだと思い知らされた。すっかり肝をつぶしてしまったのである。
その舞台となっているのがイスラエルとガザで、しかも映画の公開が第二次世界大戦後に実現したイスラエル建国の翌年だったことを考えあわせると、70年あまりの歳月を隔てながら、ただちに今日的な意味を見て取ることができるのではないだろうか。
ときは紀元前1000年ごろ。イスラエル十二氏族のひとつ、ダン族の住むツォルハ村に神より怪力を授かった英雄サムソン(ヴィクター・マチュア)が現れて、異教徒たちに恐れられていた。一方、ガザの地に育ったペリシテ人の娘デリラ(ヘディ・ラマール)は、偶然出会ったサムソンにひと目惚れしたものの報われないと知ると、嫉妬と復讐心から領主の指図にしたがって相手を罠にかけ捕縛することに手を貸す。
かくて、サムソンは両目をつぶされ、ガザの地下牢で巨大な石臼をひく奴隷の身に突き落とされるが、翌年の異教の祭典に見世物として引き出されることになり、当日、デリラの鞭にすがって神殿の要をなす2本の支柱のもとへ辿りつくと、ふたたび怪力を発揮してあっという間に神殿を崩壊させ、数千人の異教徒を生き埋めにしてしまう。勝利したのはイスラエルの神だった……。
このストーリーは、旧約聖書が歴代の英雄たちの事績を伝える『士師記』にもとづく。もとの記述によれば、デリラはただの妓(遊女)でサムソンのほうが惑溺したようなのだが、それはともかく、ふたりのあいだのクライマックスは彼女が執拗に怪力の秘密を知りたがるのに対して、それまであれこれと言い逃れていたサムソンがついに口を割ってしまう場面だろう。
彼つひにその心をことごとく打明して之にいひけるはわが頭(かうべ)にはいまだかつて剃刀(かみそり)を当しことあらずそはわれ母の胎(はら)を出るよりして神のナザレ人たればなり もしわれ髪をそりおとされたばわが力われをはなれわれは弱くなりて別の人のごとくならんと〔中略〕婦(をんな)おのが膝のうへにサムソンをねむらせ人をよびてその頭髪(かみのけ)七房をきりおとさしめ之を苦めはじめたるにその力すでにうせさりてあり
つまり、サムソンの怪力の源泉はこの世に生まれて一度も切っていない髪にあり、デリラがそうと知って切り落としたことで怪力は消え失せ、敵方の手に落ちてしまったというのだ。もとより、頭髪とは生殖能力を表すセックス・シンボルに他ならず(だから、たいていの宗教で聖職者は剃髪する)、男がその秘密を打ち明け、女が奪い取るとは、おたがいに貪りあわずにいられない関係を意味しているのだろう。それも宗教を異にする同士ゆえの狂おしいばかりの……。
だから、映画では恋愛劇として脚色してみせる。デリラを貴族の娘とし、ガザの領主の寵愛を受けながら、ひそかにサムソンへの愛を貫き、その髪がよみがえると、最後には盲いたかれの目となって神殿の祭典ではみずから先に立って要の支柱へと導いたのち、カタストロフィのただなかでふたりはともに歓喜の死を遂げる。それらすべてをスタジオのセット撮影でこなした当時の映像がいかにも紙芝居めいているのは確かにせよ、だからと言って子どもだましと笑って済ませるわけにはいかないはずだ。
現下のイスラエルとガザをめぐる情勢のもとで、では、それぞれの宗教を異にする男と女が出会って狂おしく愛しあうことで歴史の歯車を押しとどめるという、新たな神話の生まれる余地はあるのかどうか? ことによったら、われわれは旧約聖書の時代よりもずっと不寛容な世界に生きているのかもしれない。
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