尾辻克彦 著『出口』
ことによると世界で
唯一無二の表現かもしれない
28時限目◎本
堀間ロクなな
ことによると日本だけでなく、世界で唯一無二の表現かもしれない。新潮文庫創刊100年記念のアンソロジーで芥川賞作家・尾辻克彦の『出口』(1989年)に出くわしたとき、いっぺんに全身から力が脱けた。ほんの15ページの小説はそれほどのインパクトをもたらしたのだ。
ストーリーは簡明だ。作者を思わせるオッサンが深夜に帰宅する途次、ときならぬ便意に襲われて歩きながら脱糞してしまう……。尾籠と言うなら、これ以上ないほど尾籠な話ではある。が、改めて考察するまでもなく、人間(のみならず動物)が口にモノを入れて、栄養を摂取したのちに、肛門からカスを排泄するのはごく自然な営みである。にもかかわらず、特異な趣味の領域を除いて、これと真正面から向き合った文学上の表現は皆無だったのではないか。
それだけの価値がないから、という言い訳は当たるまい。とりわけ現代のわれわれにとってこの営みが切実な実存的課題となっていることは、毎朝の通勤時間帯における駅のトイレの光景を眺めれば一目瞭然だろう。
日常の生理現象で、食欲や性欲にまつわるもの、あるいは女性の月のものについても、今日では当たり前に表現が流通しているなかで、こと排泄に関してのみあくまでタブー視されているのはどうしたことだろう? 世間の虚飾を暴くことに長けた北野武が、かつて漫才で盛んにうんこのネタを取り上げたり、映画監督としても『みんな~やってるか!』では巨大なうんこを聳えさせて世界じゅうのファンを仰天させたりしているのは興味深い。また、近年ブームとなった「うんこドリル」への支持を見ても、実は社会の根底には広汎なシンパシーのひそんでいるのがわかろうというものだ。
『出口』に話を戻すと、主人公がこらえきれず、とうとう便意にわが身を任せてしまう場面が、スタジアムの出口に押し寄せる群衆に譬えられて、つぎのように描写される。
最初の群衆が出口を出ていった。
私はうつむいて歩きつづけていた。
衣服の中を、群衆が駈け降りていく。
夜の町はひっそりと静まり返っている。
明るい窓の家は、まだ人が起きて、読書でもしているのだろう。
二度目の群衆が出口を出ていった。
私は厳然と同じ歩調を保ちながら、ゆるい坂道を歩きつづけた。ふと見たものには、夜中のふつうの歩行者と見えただろう。
三度目の群衆が出口を出た。晴れ晴れとした筋肉。万歳三唱をするゲートの係員たち。何と素晴しい。何故いままでこれが出来なかったのか。
ここには、脱糞を通じて宇宙とひとつになった瞬間がみごとな詩に昇華されていると思うのだが、どうだろう。この知られざる名作にもっと光が当たり、そこからさらにめくるめく排泄の文学が誕生することを期待しないではいられない。
0コメント