高村 薫 著『我らが少女A』
再会した合田雄一郎が
突きつけてきた問いとは
580時限目◎本
堀間ロクなな
合田雄一郎とは、かつて日本で最も脚光を浴びた刑事の名前だ。高村薫の『マークスの山』(1993年 直木賞)、『照柿』(1994年)、『レディ・ジョーカー』(1997年 毎日出版文化賞)に登場したかれは、もちろん架空の存在だが、それまでの頭脳と行動力に秀でた探偵役と異なり、自他ともに「爬虫類」と認めるような冷ややかな肌ざわりのキャラクターで、それがバブル経済崩壊後のとりとめのない時代の空気とマッチしたのだろう、ミステリー・ファンにとどまらない広汎な人気を博したのである。
ところが、ブームのまっただなかで、作者の高村がこのキャラクターを手放し、はなはだ難解な観念小説めいた路線へと方向転換してしまった結果、あれだけ燃えさかった熱もすっかり冷めて記憶の引き出しに仕舞い込んだのはわたしだけではないだろう。やがて世紀が変わって相当の時間を経てから、ふたたび合田の登場する作品がいくつか書かれたことを耳にしたけれど、もはや食指の動くことはなかった。だから、今度、最も新しい『我らが少女A』(2019年)を読んでみる気になったのも、この物語の主要な舞台が野川公園と多磨霊園を中心とする半径10キロほどの圏内で、そこに境を接しあう小金井市、府中市、三鷹市、武蔵野市の一郭は、かつてわたしが居住していた馴染み深いエリアだったことに興味を惹かれたからだ。
こんなあらすじだ。12年前の2005年に野川公園で元美術教師の老女が殺害される事件が発生したが、犯人逮捕に至らないまま迷宮入りとなった。そうしたところ、北池袋のアパートで27歳の風俗嬢が同棲相手の男に殴り殺され、男はすぐに自首して決着を見たものの、被害者の女は生前、男に向かって自分が野川公園の事件現場にいたことを仄めかしていたという。彼女は当時、元美術教師が自宅で開いていた水彩画教室に通っていた女子高生で、重要な関係者と見なされていた「少女A」だった。果たして、真犯人なのかどうか。あらためて小金井署に特捜本部が設けられるとともに、かつてこの事件の捜査を指揮した合田は57歳のいま警察大学校の教授をつとめていたが、かれもまた否応もなく事態に巻き込まれていく。
再捜査は当時事件を取り巻いていた人々の現在の状況から遡って過去の行動を洗い直す形で進められ、おびただしい人生の断片が浮かびあがってきたが、それらは入り乱れながら堂々めぐりを繰り返すだけでいっこうに事件の真相に接近しない。この物語の主人公を現在と過去のあいだに横たわる「12年」とするなら、それはいつまでものっぺらぼうな顔つきのままで捜査陣を寄せつけないのだ。
あるとき、いつもの職場、いつもの仕事、いつもの顔ぶれ、いつもの道などに流れていた時間がふいに途切れる。その瞬間、それまでの日常は消えてまったく新しい時間に放り込まれているという経験を、合田は過去に何度かしたことがある。その不可逆な場面転換をもたらすのは、いつも身近な者の病や死の知らせだったが、今回もまた同じだった。
これは合田がリンパ腫を患う義兄のもとへ見舞いに訪れるときの心境だが、この個所を前にしてわたしは気がついた。こうした身内の交流よりもずっとスケールの大きいエピソードが隠蔽されていることに。2017年の現在と2005年の過去のあいだの「12年」のちょうど中間点に位置する2011年の東日本大震災について、なぜか言及がないのだ。あのとき、多摩地区でも震度5の揺れが襲い、計画停電を余儀なくされ、原発事故にともなう死の雨への注意喚起があった。あるいは、このエリアを貫くJR中央線はふだん人身事故の多発で知られるが、大震災からしばらくは張りつめたなかでその手の事故が起きなかったことを記憶している。そうしてみれば、この物語の登場人物たちに対しても「いつもの職場、いつもの仕事、いつもの顔ぶれ、いつもの道」の時間を途切らせ、日常の不可逆の場面転換をもたらすだけの作用が必ずあったはずだ。
作者が何を意図したのかはわからない。しかし、この痛切な年代記からあえて東日本大震災の記録を外したことで、登場人物たちがひたすら現在と過去を堂々めぐりしているとしたら? そうしたのっぺらぼうな時間を分節化して、もう一度日々を生きる意味を取り戻すために、もし巨大な災厄というものに意味があるとしたらなんと皮肉なことだろう。久しぶりに再会を果たした初老の合田はやはり「爬虫類」の肌ざわりで、ただならぬ問いを突きつけてきたようなのである。
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