丸山誠治 監督『連合艦隊司令長官 山本五十六』

太平洋戦争の
英雄像を形づくったもの


587時限目◎映画



堀間ロクなな


 真偽のほどは定かではない。もうずいぶん前、わたしは勤務先の上司の部長から酒席で奇妙な話を聞かされた。「山本五十六が空中戦で死んだとき、おれの叔父はすぐ近くにいた」。日本海軍の連合艦隊司令長官だった山本が南太平洋の前線視察の途上、アメリカ軍戦闘機の待ち伏せ攻撃に遭って戦死を遂げたことはよく知られているが、「叔父はその護衛機のパイロットだったせいで、アメリカのスパイの疑いをかけられて、のちに戦死したあとも家族は肩身の狭い思いをさせられた」というのだ。部長はかなり酔っ払っていたし、酔うと少なからず放言癖があったので、どこまで真に受けていいのかわからなかったが、わたしはいきなり歴史のどす黒い闇を覗き込んだように感じたものだ。



 1941年(昭和16年)12月のハワイ真珠湾奇襲で幕を開け、1945年(昭和20年)8月の広島・長崎への原爆投下によって幕を閉じるまで、実に約3年8カ月におよんだアメリカとの全面対決という歴史の大舞台にあって、もし日本軍の側の主役を挙げるとしたら、山本五十六を措いて他に存在しないとは衆目の一致するところだろう。そんな事情を端的に示したのが、丸山誠治監督の『連合艦隊司令長官 山本五十六』(1968年)だ。



 この映画で、山本(三船敏郎)は、決してアメリカと戦争してはならない、との信念を抱きながら、歴史の歯車は逆方向へと回っていき、あまつさえ連合艦隊司令長官として先頭に立つ宿命を負わされる。そこで、かれは開戦の際には緒戦で相手の戦意を挫いて早期講和へ持ち込むとの考えから、海軍上層部の反対を押し切ってハワイ真珠湾奇襲作戦を策定する。そのための大編成の機動部隊を送りだしたあとも、もし外交交渉が進展したときはただちに中止することを命じ、ついに決裂したときには必ず攻撃前に宣戦の通告を求めた。すなわち、ここに描かれるのは、世界的な視野の広がりを持つ一方で、日本古来の武士道の倫理観に立ち、アメリカとの戦争においてあくまでフェアな態度を貫こうとする山本像なのだ。



 こうしたまばゆいばかりの主役に対しては、どうしたって日陰の脇役が必要になる。それを担うのが山本のもとで作戦実行にあたった機動部隊司令官の南雲忠一(藤田進)だ。かれはせっかく真珠湾奇襲に成功しながら、最大の攻撃目標の航空母艦群を討ち洩らしてしまい、あらためて雌雄を決するため、1942年(昭和17年)6月に実施したミッドウェイ海戦では判断を誤って「運命の5分間」に壊滅的な大敗を喫する。無数の将兵たちが命を落としながら、指揮官のかれは生き延びて司令部へ戻ってくることになり、山本は周囲の幕僚にこう言い聞かせるのだった。



 「南雲を責めちゃいかんぞ。いいな、責任はみんなおれにあるんだ」



 ここにあるのはもはや一個の軍人というより、歴史に屹立する巨大な英雄の姿ではなかったろうか。



 映画が制作されたのは太平洋戦争の終結からすでに23年を経たタイミングだった。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による占領期を経て、アメリカとのあいだには講和条約と安全保障条約が結ばれて太平洋をはさんだ同盟関係にあり、一方、戦後復興を果たしたのちには、資本主義陣営にあって驚異的な高度経済成長を成し遂げ、GNP(国民総生産)の規模ですでにアメリカにつぐ世界第2位の地位を占めていた。すなわち、このカラー・シネマスコープの超大作で文部省選定映画ともなった作品には、戦後、軍事・経済の両面において日本とアメリカの強固なパートナーシップが実現するに至った起点に山本を位置づけようとする意図もあったはずだ(もし山本が戦死しなかったら、東京裁判でA級戦犯として処刑されたことを考えると、はなはだ皮肉な成り行きではある)。



 したがって、やがて日本が経済大国から滑り落ち、アメリカとの同盟関係も起伏を重ねるにつれて、そうした歴史の英雄像も次第に揺らいでいったのは当然の成り行きに違いない。今日では、山本について毀誉褒貶を含めてさまざまな評価が錯綜していることは周知のとおりだ。



 映画のラスト、1943年(昭和18年)4月18日、山本は南太平洋のビスマルク諸島にあったラバウルの司令部から、ブーゲンビル島などの前線基地へ視察に出発する朝を迎えた。作中でも描かれるとおり、このとき日本の暗号通信をアメリカ側は傍受・解読してすでにジャングルの彼方で待ち伏せ攻撃の態勢を取っていたわけで、そうとも知らず、かれはみずからの搭乗機を護衛する役目に就いた6人の若いゼロ戦乗りたちに笑顔で声をかけていく。いましも歴史がどす黒い闇の口を開けて、生きとし生ける者を呑み込もうとしているシーンで、けなげに敬礼を返したそのひとりは、ことによるとわたしの元上司の叔父だったのかもしれない――。



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍