ブラームス作曲『弦楽五重奏曲第2番』
時間の意味を
考えさせられる音楽
678時限目◎音楽
堀間ロクなな
ときにわたしは首をひねりたくなる。生物学者・本川達雄の著作『ゾウの時間 ネズミの時間』(1992年)によると、動物によって時間の流れがまったく異なるそうだが、それは人間のあいだにも当てはまるのではないだろうか? とりわけ、時間の芸術とされる音楽に携わる人々において顕著に観察できる気がしてならない。
最たる例が、ヨハネス・ブラームスだ。ベートーヴェンが世を去って6年後の1833年にドイツのハンブルクに生まれたかれは、幼時から才能を発揮して作曲に取り組み、20歳のときにロマン派楽壇の旗手であるロベルト・シューマンに認められて脚光を浴びる。しかし、ベートーヴェンの偉大な音楽を崇拝するあまり、最初の交響曲の作曲に19年もの期間を要して1876年、43歳の年にようやく完成させたことはよく知られていよう。もしモーツァルトやシューベルトの寿命しか許されなければこのジャンルにはひとつの作品も残せなかったわけだが、おそらく甘んじて受け入れたのだろう。そんなふうに考えると、かれには大器晩成といった言い方では追いつかないくらいの固有の時間が流れていた思いにさせられるのだ。
ブラームスは以後、9年のあいだに四つの名作交響曲を世に送りだしたのち、さらにもうひとつの交響曲の構想を練っていたものの放棄して、代わりに1890年に『弦楽五重奏曲第2番』を完成させた。そうした事情について、知人宛ての手紙のなかでつぎのように説明している。
「私は、最近、交響曲も含めてその他いろいろのものに着手しましたが、どれも具合よく進まなかった。私は、もう年をとりすぎたと思うし、精力的には何も書かないと決心した。私は、自分の生涯が十分に勤勉なもので、十分に達成されたと思ったし、人に迷惑をかけない年齢となり、いまや平和を楽しむことができると考えた」(門馬直美訳)
いまだ57歳にしてみずからの老いと才能の限界を自覚して、すぐさま創作活動からの引退を表明したとは潔いというべきか、のみならず、このあと正式な遺言書を作成して身辺整理まで手をつけたのはせっかちというべきか。そのあたりの時間の感覚も常人にはちょっと掴みがたいところだろう。さらに首をひねりたくなるのは、最後の交響曲が季節に譬えるなら晩秋にふさわしい濃厚な憂愁の気配を湛えていたのに対して、おのれの作曲家人生にピリオドを打つはずの弦楽五重奏曲ではまるで陽春に立ち返ったかのように、全4楽章にわたってウィーン風のワルツの主題がちりばめられ、溌剌とした情念と諧謔に満ちていることだ。
この不思議な作品を聴くときに、わたしはアマデウス弦楽四重奏団のCD(1967年)を取りだすことが多い。もうずいぶんと古い録音で、他にもっと新しい世代の優秀な団体による録音もあるのだけれど、結局、かれらの演奏に帰り着いてしまうのにも固有の時間の流れが関与しているのかもしれない。
ノーバート・ブレイニン(第1ヴァイオリン/オーストリア出身)、ジークムント・ニッセル(第2ヴァイオリン/ドイツ出身)、ピーター・シドロフ(ヴィオラ/オーストリア出身)、マーティン・ロヴェット(チェロ/イギリス出身)によって、1948年にロンドンで結成されたアマデウス弦楽四重奏団は、1987年にシドロフの死去で解散するまで39年間におよぶ活動を繰り広げた。もとより、弦楽四重奏団のような形態においてはメンバーの新陳代謝が一般的なのに、4人は出身国も別々にもかかわらず、実にこれだけの長い歳月にわたって入れ替わりなく不動のアンサンブルを築いたのは、わたしの知るかぎり唯一無二の例だ。そんなかれらにヴィオラのセシル・アロノヴィッツが加わって行われた演奏には、やはり他の団体には追いつくことのできない時間が流れていて、これがブラームスの作品との特別な親和性を発揮したといったら穿ちすぎだろうか?
最後にもうひとつ、エピソードをつけ加えておこう。『弦楽五重奏曲第2番』をもって創作活動に見切りをつけたはずのブラームスは、翌年にクラリネット奏者のリヒャルト・ミュールフェルトと出会ったことをきっかけにふたたび音楽への意欲を取り戻すと、遺言書をつくり直したうえ、クラリネットのためのいくつもの室内楽や聖書にもとづく『四つの厳粛な歌』などの晩年の傑作を生みだしていき、1867年、満63歳で世を去るまで作曲家としての人生をまっとうしたのである。その見事な生きざまに心から敬服しつつ、わたしはどうしても首をひねらずにはいられないのである……。
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