『尾崎放哉句集』
あの名句を生み出したのは
錬金術師の手並みか?
43時限目◎本
堀間ロクなな
壁の新聞の女はいつも泣いて居る
口あけぬ蜆(しじみ)死んでゐる
一切を放り出して転落してしまいたい。そんな願望にとらわれがちな者にとって、尾崎放哉(ほうさい)の俳句はひそやかに寄り添ってくれる慰めだろう。
1885年、鳥取県の旧士族の家に生まれ、旧制一高から東京帝国大学法科を経て、東洋生命に入社。まさにエリートコースを邁進していたはずが、だれしもサラリーマンなら身に覚えがあるだろう日々の葛藤をアルコールで紛らわすうち、その酒癖がいっそう軋轢を招いて退社する。その後、朝鮮火災海上に転じて京城(現・ソウル)へ赴任したものの、ここでも酒乱やみがたく会社を追われて帰国。あまつさえ結核を患い、妻とも離別して、奉仕施設や各地の寺を転々としながら、1926年、小豆島で41歳の生涯を終える。その間、生命の残り火を燃やして、五七五の定型や季語にとらわれない自由律の句作に励み、孤独の極限の心境を刻みつけていった……。
わたしは吉村昭著『海も暮れきる』で大正期のこの俳人を知り、心の友としてきたが、ドイツ文学者・池内紀が編んだ『尾崎放哉句集』の解説に接してうめいた。近年、放哉の俳句には添削されたものが含まれていることが明らかになり、冒頭に掲げた代表作のふたつもオリジナルはつぎのとおりだったという。
いつも泣いて居る女の絵が気になる壁の新聞
口あけぬ蜆淋しや
公平に見て、かなりの落差があるだろう。これでは捏造、とまでは言わなくても、改作ないし合作と見なすのが妥当ではないか。添削者の荻原井泉水(せいせんすい)は、1884年、東京生まれ。旧制一高で俳句会を創立して、そこに1学年下の放哉も加わり「井師」と呼ぶ師弟関係が終生続くことになる。1911年、新傾向俳句運動の機関誌『層雲』を発刊して、放哉は彷徨の生活にあって盛んに投稿し、井泉水が添削して発表するという連携プレーが行われたのだ。何も傍が目くじらを立てるいわれはないのかもしれないし、わたし自身それによっていささかも共感の揺らぐことはないのだけれど、だとしても、当の本人以上に孤独の極致を表現したさまには、あたかも錬金術のたぐいを見る思いがする。
井泉水は『詩と人生』(1972年)という著書で放哉の俳句を論評している。もとより添削の次第などオクビにも出さず、自由律の手本としてつぎの作品を俎上にのぼせた。
入れものが無い両手で受ける
小豆島の寺で無一物の生活を送るなか、近在のひとから思いがけず施しを授かったときの心境――。井泉水は「私の拙い英訳」を示してみせる。
There is nothing for getting.
Here is all on my own hands.
まさしく錬金術師の手並みというべきだろう。井泉水は放哉の死後半世紀を生き、ほかに種田山頭火などの弟子も育てあげ、1976年に92歳の天寿を全うした。
0コメント