井上ひさし 著『化粧』

化粧する男性を
蹴飛ばしたくなるワケ


772時限目◎本



堀間ロクなな


 わたしは古い人間なのだろう。最近はテレビばかりでなく、世間でも男性がしたり顔で頬紅や口紅をつけているのを見かけ、そのたびに尻を蹴飛ばしたくなる。かれらが女性の向こうを張って容貌にこだわることへの違和感だけが理由ではない、化粧というものが孕む禍々しさについてまったく無頓着らしいのに苛立ちを覚えるからだ。



 それを痛烈に思い知らせてくれたのは、井上ひさしの一人芝居用の戯曲『化粧』(1983年)だ。かつて東京・新宿の紀伊國屋ホールで木村光一演出/渡辺美佐子出演による公演を観たときの衝撃はいまも生々しくよみがえってくる。



 ところは、うらさびれた芝居小屋の楽屋。大衆劇団の女座長・五月洋子(46歳)が「いさみの伊三郎」というヤクザの役のために、鏡台の前で化粧にいそしみながら、ここからは姿の見えない年寄りの女形、中丸のおじさんを相手に語りかける。そのおしゃべりのなかで、20年前に亭主が駆け落ちしたせいで自分が劇団を継ぐ羽目となり、生まれたばかりの乳飲み子を里子に出して懸命に一座を支えてきた現実のドラマと、今日の演目で「いさみの伊三郎」が悪行を重ねた末に、幼いころ生き別れた母親の面影を追ってさまよう虚構のドラマとがないまぜになって進行するうち、やがて女座長の化粧が完成して、彼女は舞台へ駆け出していく……。



 井上の当初の戯曲はここで結ばれていた。そうしたところ、初演の際、女座長に扮した渡辺美佐子がアドリブのセリフを口にしたという。



 「どうしてこの芝居にはだれも出てこないんだ?」



 そのひと言葉をきっかけに、井上はもとの計画にはなかった後半部分を書き足して倍の分量に増やした。芝居の幕間となって、女座長が同じ楽屋に戻り、ふたたび鏡台の前で化粧直しに取り組むというしつらえだ。その表情は、ひと芝居を終えたあとの昂ぶりに加えて、何かしら怪しいまでの高揚感に引き攣っている。またぞろ中丸のおじさんにとめどないおしゃべりを浴びせていると、ふいに目の前に20年のあいだ他人に預けたきりだったひとり息子が出現して、彼女は涙ながらに歓喜を爆発させるのだ。



 「みんな、穴のあくほど見ておくれよ。これがあたしの子だよ。立派だろ。男前じゃないか。母親のあたしでさえ惚れ惚れしちゃうよ。なんだって中丸のおじさん? それにしては似てない? 〔笑って〕そりゃ鳶(とんび)が鷹を生んだのさ。〔化粧を直しながら〕ねえ、龍雄……。いや、晴彦って呼んだ方がいいか。あのね、これからは一緒に住もうか。さすがの五月洋子もちょいと疲れちまった。〔中略〕おまえ、好きな娘(こ)がいるんだろう? ……今はいない? 今はいなくとも、そのうちに出来ますよ。だいたい周囲(まわり)が放っときゃしませんよ。その男前で色ごとなしにすまそうだなんて、日本銀行へ泥棒に入るより難しい。女の子が出来れば自然と赤ン坊が生れる。その子はあたしにゃ孫ですよ。孫が抱きたいな。孫の御守がしてみたい。所定めぬ浮草の、あちらこちらと経回(へめぐ)って、茨の垣根を裸身で跼(くぐ)るような、剣の刃を渡る毎日につくづく疲れ切ってしまった。あたしの心からの夢はね、〔しみじみと〕日当りのいい縁側に孫を抱いて坐り込んで、ねんねんねこの尻(けつ)に蟹が這い込んだァ」



 ところが、つぎの瞬間にはもう息子のことをすっかり忘れて、中丸のおじさんに向かって「いさみの伊三郎」の口立て稽古をはじめるようせっつく。この間もかたときも休むことのない化粧の手は、顔の半分を真ッ赤に塗り固めたり、額に丸を描いたり、鼻の頭を青く塗ったりの、空恐ろしくなるほどの出鱈目さ加減――。わたしはあの日、紀伊國屋ホールで背筋がわなわなと震えだしたのをはっきり記憶している。



 これは一体、何を意味しているのか? オモテから見れば確かに、人生に疲弊困憊した女座長が狂気に導かれて支離滅裂な化粧をするに至った姿に違いない。だが、ウラから眺めると、むしろ逆にとめどない化粧が女座長を狂気へ導いていったと見て取ることができるだろう。あたかも、あの「どうしてこの芝居にはだれも出てこないんだ?」のセリフに呼応するかのように。みずからの手になる化粧によってもうひとりの人格を生みだしてしまう。渡辺美佐子のアドリブのひと言に突き動かされて、井上は初めてこの芝居の主題を見出したようなのである。



 化粧という行為にはどうやら、こうして虚実のはざまに人格を分裂させ、一歩誤ったら狂気に落ち込みかねない深淵があり、女性は多少なりとものその危うさを承知したうえで毎日頬紅や口紅を操っているはずだ。それを男性どもが弁えようともせず、ただ化粧の上澄みだけにウツツを抜かしているさまを目の当たりにするにつけ尻を蹴飛ばしたくなる。わたしは古い人間なのだろう。 



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍