パガニーニ作曲『ギターのための作品』

「悪魔」がつくった
ロマンティックな音楽


779時限目◎音楽



堀間ロクなな


 ある芸術家の代表作に親しんできたあとで、たまたますべての作品を網羅した全集に接してみて、その芸術家に対する認識が一変してしまうことがある。わたしにとって、ニコロ・パガニーニもそんなひとりだ。



 パガニーニといえば、1820年代から30年代にかけてヨーロッパに旋風を巻き起こし、「悪魔」とも呼ばれたイタリア出身のヴァイオリニストだ。かれが残したこの楽器の独奏曲や協奏曲は超絶的な技巧を誇るばかりでなく、常軌を逸した狂気の気配さえ孕んで、とうてい気楽に聴くことができないのは決してわたしだけではないだろう。ところが、イタリアの老舗のレコード会社「DYNAMIC」が世に送りだした『パガニーニ作品全集』と出会って仰天してしまった。



 この全集を構成する全40枚のCDのうち、5枚は歴史的演奏を収録し、35枚によってパガニーニの現存する全作品が俯瞰できるようになっている。そのなかの20枚、つまり過半数を、なんとギターのための多彩な作品が占めているのだ。しかも、さらに驚くべきは、それらが代表作とされるヴァイオリンの楽曲とは真逆の作風を示して、いずれも穏やかな幸福感に包まれながら、イタリアの夜にふさわしい官能の喜びを立ち昇らせて、聴く者を笑顔にしてやまないたぐいの音楽であったことだ。



 まるでパガニーニという名前のふたりの作曲家が存在するかのような、この事態をどう理解したらいいのだろう? そこにはかれの人生の謎が横たわっているようなのだ。



 1782年にジェノヴァに生まれたパガニーニはヴァイオリンの神童として知られ、イタリア各地で演奏活動を繰り広げるとともに、派手なギャンブルや色恋沙汰でも世間を騒がせていたところ、突如、10代の終わりの1801年からしばらく消息を絶ってしまう。この伝記上の空白の期間については長らく不明だったが、今日ではどうやらトスカーナの「ディーダ」と称する裕福な未亡人のもとに身を寄せていたらしいことがわかっている。そして、熱心なギター愛好者だった彼女のために作曲に取り組んだというのだ。だとしても、わずか数年のあいだに200曲近くもつくりだすとは尋常ではないだろう。



 その謎を解き明かす手がかりが、ヴェネツィアの劇作家カルロ・ゴルドーニの喜劇『抜目のない未亡人』(1748年)にあるのではないか、とわたしは睨んでいる。主人公のロザーウラは若さと美しさを武器に大金持ちの老人と結婚し、やがて夫が昇天すると、その財産をわがものとして再婚相手を物色しはじめるという設定だ。おそらく当時のイタリアではこうした風習が必ずしも珍しくなく、パガニーニもまた、同じような境遇の未亡人と出くわしたのではなかったか。



 そんなしたたかなロザーウラの前に4人の求婚者が登場するのだが、かれらもしたたかさでは引けを取らない。イギリス人の閣下は大粒のダイヤモンド、フランス人のムシューは自分の美しい肖像画、スペイン人の貴族は栄えある家系図、イタリア人の伯爵は美辞麗句を並べた手紙と、それぞれがアイディアを凝らしたプレゼント攻勢に出るのだ。こうした成り行きからすると、パガニーニがつぎからつぎにギターのロマンティックな楽曲を未亡人に贈った事情も透けて見えてくるだろう。



 「とくと考えましょう。婿選びの際には心で決めるのでなく、頭で決めることにいたしましょう。美貌を求めず、愛情や誠実を重んじたいと思います。わたしは後家で、いささか世間を知っています。恋人を選ぶには片目を開ければそれで用は足りますが、夫を選ぶからには両目をしっかり開かねばならぬことくらいわきまえております。それでも不足なら、慎重という眼鏡をかけて、その顕微鏡にもかなうかどうか仔細に吟味いたしましょう」(平川祐弘訳)



 結局、ロザーウラのこの宣言によってことが決し、彼女の判断によって選ばれたひとりを除いて、他の3人の男性はぶつくさ毒舌を吐きながらも仕方なく未亡人のもとを去っていって幕を降ろす。ことほどさように、パガニーニも最終的な「顕微鏡」の吟味にパスすることができずに尻尾を巻いて退散し、伝記上の空白の期間にピリオドを打ったとわたしは推理したいのだが、どうだろうか? かくして、1804年に22歳のパガニーニはヴァイオリニストの活動を再開し、やがて故国をあとにして、「悪魔」としてヨーロッパ全土の前に出現することに……。


   

一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍