ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)著『耳なし芳一のはなし』

耳と耳のあいだに
あるものは


781時限目◎本



堀間ロクなな


 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と節子夫人をモデルとしたNHK連続テレビ小説『ばけばけ』(2025年度後期)をわたしも面白く観た。ドラマは、島根県・松江の中学の英語教師として赴任してきたハーン(作中ではヘブン)に、宿の女中の節子(同、トキ)が愛着のある怪談を語って聞かせたことから親密になって結婚に至り、その後、熊本を経て東京へと生活の場が移っていくなか、妻は日本に帰化した夫の執筆活動を支え続けて、ついにはふたりで共同作業のように『怪談』に取り組むところがクライマックスをなした。



 現実のハーンが1904年(明治37年)、54歳で迎えた死の直前に完成させたこの『怪談』は、だれしも子どものころから親しんできたはずだ。とりわけ、その冒頭に置かれた『耳なし芳一のはなし』についてはもはや多言を必要としないだろう。



 はるか昔、平家滅亡の地の赤間が関(現在の下関)に住む盲目の琵琶法師、芳一は夜な夜な、そうと知らずに平家の亡霊たちに呼びだされて「壇ノ浦の合戦の段」を語り聞かせていたところ、寺の和尚がことの真相を探りあて、このままではやがて八つ裂きにされてしまうだろうと伝え、かれを素っ裸にして全身に筆で般若心経の文字を書いてやった。すると、その夜、亡霊たちはいつものように芳一に呼びかけても返事がなく、かれの姿を見つけることもできないので憤怒に駆られて談合する。



 「ここに琵琶があるぞ。だが、琵琶法師が見えぬ。ただ耳がふたつ見えるだけじゃ。……さてこそ、返事をせぬはずじゃわ。返事をしょうにも口がないて。法師の五体は、耳がのこっておるだけじゃ……よし、しからばここなこの耳を、大殿に持って帰って進ぜようわえ。殿の厳命をばよくぞ勤めたという、こりゃよい証拠じゃ」(平井呈一訳)



 かくして、亡霊たちはふたつの耳たぶを引きちぎった。それというのも、和尚がうっかりしてそこだけ経文を書くのを忘れていたからで、以来、かれは耳なし芳一と呼ばれて世間で大いに持て囃されたというオチだ。わたしがかねて疑問だったのは、亡霊たちの目に芳一の姿が映らなくなったにせよ、ふたつの耳は見えたのだから、であれば耳と耳のあいだに頭があるのは容易に推察できたことだ。にもかかわらず、その首を手さぐりでねじり切らずにふたつの耳だけで済ませたのは、しょせん子どもだましのハナシではないか、と――。



 もとより、このストーリーには出典があって、その『臥遊奇談』(1782年)の記述にしたがったのではあるけれど、ハーンがあらためて書き起こしたときのありさまを節子夫人は『思い出の記』(1911年)のなかでつぎのように回想している。



 「『怪談』の初めにある第一の話は大層ヘルン(ハーン)の気に入った話でございます。中々苦労を致しまして、もとは短い話であったのをあんなに致しました。〔中略〕この『耳なし芳一』を書いています時のことでした。日が暮れてランプをつけていません。私はふすまを開けないで次の間から、小さい声で、芳一、芳一と呼んで見ました。『はい、私は盲目です。あなたはどなたでございますか』と内から云って、それで黙っているのでございます。いつも、こんな調子で、何か書いている時には、その事ばかりに夢中になっていました。又この時分私は外出したおみやげに、盲法師の琵琶を断じている博多人形を買って帰りまして、そっと知らぬ顔で、机の上に置きますと、ヘルンはそれを見ると直ぐ『やあ、芳一』と云って、待っている人にでも遇ったと云う風で大喜びでございました。それから書斎の竹藪で、夜、笹の葉ずれがサラサラと致しますと、『あれ、平家が亡びて行きます』とか、風の音を聞いて、『壇の浦の波の音です』と真面目に耳をすませていました。……」



 すなわち、ハーンは節子夫人を相手としてみずから芳一となりきり、その立ち位置でこの物語を書き紡いでいったのだろう。わが身を盲目の琵琶法師に身を置き換えてみるならば、耳と耳のあいだに頭のあるのは自明の理で、亡霊たちもわきまえぬはずもなく、かれらが手をつけなかったことをもって子どもだましの疑いを抱いたわたしのほうが幼稚だったようだ。いまこの年齢に達して、ハーンがこの場面に託した主題はもっと別のところにあったらしいことが理解できるのだ。



 色即是空、空即是色。般若心経のその文字を書きつけられたことによって五体が消え去ったとは、何も平家の亡霊たちにかぎったハナシではなく、死を間近にしたハーンそのひともまた、耳と耳のあいだが「空」でしかないことを見て取ったのではなかったか? そのとめどない恐怖を――。


   

一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍