フレッド・ジンネマン監督『真昼の決闘』
銃社会における
英雄のあり方とは?
791時限目◎映画
堀間ロクなな
西部劇史上の名作とされるフレッド・ジンネマン監督の『真昼の決闘』(1952年)をこれまで何度か観たけれど、そのたびにもうひとつ腑に落ちないままラストシーンを迎えてしまうのがつねだった。どうやらこの映画の本当の主題を受け止められなかったせいらしい、と気がついたのはようやく最近のことだ。
ざっとこんな筋書きだ。
西部の小さな町ハドリーヴィルの保安官ウィル・ケイン(ゲイリー・クーパー)は任期満了となり、新たな人生の門出にあたってフィアンセのエミイ(グレース・ケリー)と結婚式を挙げた。そこに突如、荒くれ者のフランク・ミラーが正午の汽車で舞い戻ってくるとの報が届く。かつて暴力で町を牛耳っていたこの男は、ケインが5年前に絞首刑送りにしたものの減刑され、保釈の日がやってきたという次第で、すでに駅には弟と仲間2人が待ち構え、ただちに復讐劇が繰り広げられるのは明らかだった。そこで、いったんエミイと町ともに町から脱出しようとしたケインだが、やはり背中を向けるわけにはいかない、と踵を返して、ミラー一味を正面切って迎え撃つことにする。そんなケインの態度にエミイは激しく反発して叫んだ。
「私のために英雄になろうとしないで!」
実は、彼女には父と兄が正義を行おうとして撃ち殺された過去があり、以来、非暴力主義のクエーカー教徒として生きてきたので、いまや決闘に立ち向かう夫の意思が動かせないことを知ると単身町を離れようと決意する。一方のケインは汽車の到着が刻一刻と迫るなか、町の平和を守るため住民たちに協力を求めたところ、騒々しい議論だけがあって結局はだれも立ち上がらず、ひとりで4人の悪漢と対決する羽目に。かくして、ついにそのときがくる。汽車から降り立ったミラーたちとのあいだに銃撃戦の火蓋が切って落とされ、やがてケインが絶体絶命のピンチに陥った瞬間、純白の花嫁衣裳をまとったまま駆けつけたエミイが敵を撃ち殺して救う。こうして一味を殲滅したのち、ケインは住民の前で保安官のバッジを外して投げ捨て、エミイとふたりで町をあとにするのだった……。
この映画は公開当時、アメリカを席巻していたマッカーシー旋風(赤狩り)との関連が取り沙汰され、そのせいか、ゲイリー・クーパーは二度目のアカデミー賞主演男優賞を受けながら授賞式に姿を見せなかった。しかし、わたしはこうした時事的な背景の底にもっと深刻な主題が横たわっているように思う。
どうしても腑に落ちないことのひとつは、主役のふたりのアンバランスだ。ケインは任期をまっとうしたベテランの保安官なのに対して、エミイはいかにも初々しい新妻であり、双方を演じたゲイリー・クーパーとグレース・ケリーの51歳と22歳の年齢差どおりのカップルで不自然さがつきまとう。もうひとつは、町の住民たちの裏切りだ。ミラー一味がいくら荒くれ者だとしてもわずか4人に過ぎず、刀剣が武器ならともかく、銃という「飛び道具」を用いた戦いならば人数がモノをいうのは明らかで、もしかれらが平和な暮らしのために手を貸したなら撃退するのは容易だったろうし、ラストシーンの後味もずっとよいものになったはずなのに。
これらの理不尽な設定をとおして、映画の本来意図した主題が浮かびあがってくるのではないか。つまり、ケインの伴侶に汚れのない乙女をあてるとともに、かれが自分ひとりではどうしようもない危地に追い込まれるように組み立て、そのときに夫の命を救うためにエミイがみずから銃を手に取るという構図こそが核心なのだ、と――。前記の彼女のセリフをもじっていえば、こんなふうになるだろう。
「私はあなたのために英雄になるわ!」
たとえ聖女であっても正義の前には銃を敵に向ける。それはある意味で美しいドグマかもしれない。しかし、愛する夫のためとはいえ、クエーカー教徒としての信仰に反して殺人を実行したエミイは、その後、ケインとのあいだで心穏やかな夫婦生活を営むことができるのだろうか? ことによったら、ひとたび正義のために銃を放った人間は、いつか別の正義のためにふたたび銃を放つのではないか? そのときの銃口は果たして、だれに対して向けられるのだろう? アメリカ建国250年の「銃社会」の歴史はこうした英雄のあり方をめぐる痛切な問いかけのうえに成り立ってきたことを、『真昼の決闘』はわれわれに教えてくれているように思えるのだ。
0コメント