メンデルスゾーン作曲『無言歌集』
音楽によって
表現される思考とは
797時限目◎音楽
堀間ロクなな
ピアノによる「無言歌」を創始したのは、1809年ドイツ生まれのロマン派の作曲家、フェリックス・メンデルスゾーンだ。厳密には、同じく音楽の才能に恵まれた4歳年上の姉ファニーのアイディアらしいが、ともあれ、こうして全8巻・計48曲から成る『無言歌集』(1829~1845年)が世に送りだされることになった。
「無言歌」とは文字どおり言葉のない歌を意味するわけだが、もっとふだん使いの平たい表現をするなら「鼻歌」といっていいのではないか。実際、わたしなども何気なく「鼻歌」をうたっていて、ふとそのメロディが上出来なのにびっくりしたりする。つまり、だれの脳ミソにも作曲の資質がひそんでいるのだろうけれど、そこは凡人の哀しさ、せっかくメロディを思いついても右から左に通りすぎてしまって形に残らない。ところが、この大部の「鼻歌」をまとめた人物は、そんな凡人ばかりでなく、クラシック音楽史の名だたる作曲家たちと較べてもスペシャルな存在だったのだ。
メンデルスゾーンはまず、異常に早熟な音楽的才能の持ち主だった。9歳でピアノの公開演奏を行い、16歳までに四つのオペラをはじめ、交響曲、協奏曲、カンタータ……などを作曲し、今日でも人気の高い『真夏の夜の夢』序曲を17歳にしてつくりあげたのは、あのモーツァルトに優るとも劣らない神童ぶりといえるだろう。
さらにメンデルスゾーンを際立たせているのは、当時のドイツで有数の富豪の家に生まれたことだ。銀行家の父親はベルリンに城のような豪邸をかまえて、子どもたちの家庭教師に一流の音楽家を招いたのみならず、私設のオーケストラを雇い入れて日曜日にはフェリックスの作品を演奏するコンサートが開かれたという。かれは幼くして文豪ゲーテと親交を結び、ベルリン大学ではフンボルトの自然科学やヘーゲルの哲学を学んで広汎な教養を身につけ、一介の作曲家・演奏家の立場を超えて、100年ぶりにバッハの『マタイ受難曲』を復活上演するといった偉業を成し遂げるなど、ヨーロッパの音楽界全体に巨大な足跡を印していった。
『無言歌集』は、そんな人物の頭脳にひらめいた「鼻歌」を書き留めたものといえるだろう。とりわけ、1842年6月1日の作曲との記載がある第5巻(作品62)の第6曲『春の歌』は、「母と子の名曲アルバム」のたぐいの定番で、おそらくメンデルゾーンのおびただしい楽曲のなかで最も有名な作品に違いない。このほんの3分間ほどのピアノ曲に、とめどない才能ととめどない富裕に寿がれた希有な作曲家が放つ光のまばゆさを見て取ることができるのだろう。
いや、それだけではない。クラシック音楽史においてメンデルスゾーンを決定的に特徴づけているものがまだ存在する、ユダヤ人の出自だ。銀行業で成功を収めた父親は、子どもたちをキリスト教社会に溶け込ませていくため幼児洗礼を行って改宗させたうえ、姓も「メンデルスゾーン・バルトルディ」にあらためて、フェリックスもこうした立場でくだんの『マタイ受難曲』の蘇演に取り組み、また、みずからもキリスト教にもとづく作品を発表したものの、当時のユダヤ人への差別意識は根深かった。上記の『春の歌』が生みだされたのは、約13年かけて『交響曲第3番〈スコットランド〉』を完成させて、自身が音楽監督をつとめるライプツィヒのコンサートで披露したかたわら、本拠のベルリンでは相変わらず冷遇にさらされ、プロイセン王に要請された音楽学校の創設も頓挫して失意を味わっている時分だった。
また、このころから片頭痛の発作が激しくなって、それは繁忙をきわめた多方面の活動がもたらしたのと同時に、メンデルスゾーン家の遺伝的な循環器系障害に由来し、1847年に姉ファニーが脳溢血で急逝すると、あとを追うようにフェリックスも同じ疾病により38歳の生涯を終えたのである。
「音楽というものは非常にあいまいで、聴いた時考えるべきことがらはそんなにはっきりしないが、これに反して言葉はだれでも理解できる、と苦情を述べる人がいる。私は正反対であると思う。……私の愛する音楽によって表現される思考は、言葉に置き換えられないほど不明瞭ではなく、反対に明確すぎるのである」(亀井旭・玉木裕訳)
メンデルスゾーンが残したメッセージだ。おそらく、『無言歌集』はかれの人生のまばゆい光と、そのぶんいっそう暗い影が反映したものであり、たんに言葉のない歌ではない、そこには言葉ではなく音楽の表現ならではの思考が刻み込まれていたのだろう。じっと耳を済ませば、だれでも明瞭に聴き取れるはずの……。やはり、われわれ凡人にはおよびもつかぬ「鼻歌」のようなのである。
【追記】
わたしが『無言歌集』のCDで愛聴しているのは、クリストフ・エッシェンバッハ演奏の全曲版(48曲)と田部京子演奏の抜粋版(25曲)です。
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