ビル・エヴァンス演奏『マイ・フーリッシュ・ハート』

私の愚かしい心よ
落ち着くのだ


833時限目◎音楽



堀間ロクなな


 『ワルツ・フォー・デビイ』をビル・エヴァンスのアルバムのなかで最上とするばかりか、あらゆるレコードのベストワンに挙げるひともきっと数多いに違いない。これは、1961年6月25日にニューヨークのジャズ・クラブ「ヴェレッジ・ヴァンガード」において、エヴァンス(ピアノ)がスコット・ラファロ(ベース)、ポール・モチアン(ドラムス)と行ったセッションのライヴ録音から構成したもので、トップに置かれたのは『マイ・フーリッシュ・ハート』だ。



 美しい音楽のような夜

 私の愚かしい心よ 落ち着くのだ

 いつもと変わらない明るい月

 私の愚かしい心よ 気をつけるのだ



 ヴィクター・ヤングの手になる同名映画(マーク・ロブソン監督 1949年)のこんな主題歌を、エヴァンスはあたかも自作の曲であるかのように没入して弾きはじめる。そのどこまでも研ぎ澄まされた美しさには言葉を失うほどだ。以降、しばしばコンサートで取り上げていくことになるので、よほどお気に入りだったのだろう。いや、そう簡単な話ではないのかもしれない。というのは、わたしはかれの生涯を追ったドキュメンタリー映画『ビル・エヴァンス タイム・リメンバード』(ブルース・スピーゲル監督 2015年)の衝撃がいまだに尾を引いているからだ。



 1929年にニュージャージー州で生まれたエヴァンスは、兄ハリーとともに幼いころからピアノに親しみ、大学でクラシックとジャズを学んだあと、2年間の兵役期間を経て、ニューヨークで本格的な演奏活動をスタートさせた。ときあたかもモダン・ジャズの黄金時代ともいうべき1950年代のまっただなかで、かれは異色の白人ピアニストでありながらたちまち頭角を現し、帝王マイルス・デイヴィス(トランペット)の目に留まって共演を重ねる一方で、新興レコード会社のリヴァーサイドと契約して、上述の若い野心的なトリオであいついで名盤を世に送りだすことに……。



 それはアメリカン・ドリームと呼ぶべき華やかなサクセス・ストーリーなのだが、反面で、エヴァンスの身辺には死の暗い影がつきまとう。くだんの「ヴィレッジ・ヴァンガード」公演の直後、メンバーのラファロが交通事故で急逝して、かれは深い失意に陥る。のちには、10年あまり同棲した恋人エレインが地下鉄で投身自殺し、また、生来心の支えだった2歳年上の兄ハリーが統合失調症で拳銃自殺を遂げる。それだけではない。エヴァンス自身、デビュー前後からプレッシャーに耐えるためヘロインを常用して、次第に中毒症状を増していき、さながら緩慢な自殺といった状態にあったのだ。



 もしエヴァンスの澄み切ったピアニズムがこうした死の暗い影と引き換えにもたらされたとするなら、なんと恐ろしいアイロニーだろう。映画は、かれの肉声がこんなふうに語るのを記録している。



 「結局、わかったのは、音楽をやるべきだということ。クローゼットのなかだろうが。すると、だれかが扉を開いていうんだ、『おい、探していたよ』と」



 なるほど、エヴァンスのあの背中を丸め、ピアノに顔面を擦りつけるかのようにして鍵盤に指を走らせる姿は、かれの心中ではクローゼットのなかでひそやかに演奏する振る舞いだったのかもしれない。そうしたかれが「私の愚かしい心」と題された曲を繰り返し取り上げたのも理解できる気がするのだ。



 かつての歴史的公演から19年が経った1980年6月5日、エヴァンスは最後の「ヴィレッジ・ヴァンガード」出演となったセッションでマーク・ジョンソン(ベース)、ジョー・ラバーベラ(ドラムス)とともに『マイ・フーリッシュ・ハート』を演奏し、ライヴ録音が残っている。映画のなかで当時の恋人ローリーは、このころのかれについて週に1オンス近いコカインを注射して「ビルは暗い世界に移っていった」と証言しているが、実際、その演奏は相変わらず透徹した美を撒き散らしながら、すでに現実世界を離れて、片脚を棺桶に突っ込んでいるかのように聴き取れるのである。



 それから3か月後の9月15日、エヴァンスは車のなかでジョークを交わしている最中に大量の血を吐いて絶命した。おそらく「私の愚かしい心」から解き放たれた瞬間だったのだろう。



   

一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍