チャールトン・ヘストン主演『猿の惑星』
ときにはいっそ
猿になったほうがいい
60時限目◎映画
堀間ロクなな
いささか恥ずかしい告白から始めたい。子どものころひ弱だったわたしは、ハリウッド映画の『ベン・ハー』や『猿の惑星』のチャールトン・ヘストンに憧れた。白人の筋骨逞しい大男が半裸でところ狭しと躍動する姿がまぶしかった。そして、中学に入って英語を学び、映画雑誌にのっていた宛て先にファンレターを送ると、しばらくして直筆サイン入りのブロマイドが返送されてきたのだ。これまでの人生で、あれほどわが身の幸運に歓喜した覚えはないように思う。
『猿の惑星』の原作者であるフランス人作家ピエール・ブールは、第二次世界大戦中にフランス領インドシナで日本軍の捕虜になったという。その体験をもとに、戦後発表した小説のひとつが映画化されて『戦場にかける橋』(デヴィッド・リーン監督 1957年)となり、もうひとつがこの『猿の惑星』(フランクリン・J・シャフナー監督 1968年)となった。だから、ここに描かれたキテレツな世界観がどこに由来するのかは、おのずから明らかだろう。
ストーリーを詳しく説明する必要はあるまい。テイラー船長(ヘストン)の指揮のもと、アメリカのケネディ宇宙センターを出発したロケットが、相対性理論で時空を超越した飛行の果てにたどりついた惑星では、進化した猿たちが支配していた。人間(白人のみ)は口もきけず獣なみに扱われていたところ、テイラーは敢然と立ち上がって、猿の学者夫婦の協力を得ながらこの逆転した世界の秘密を探り、ついにここは自分たちが出発した2000年後の地球だと知る……。そして、原作者の発想の起点に立つなら、猿とは日本人のアレゴリーにほかならないのだ。
ただし、急いでつけ加えておきたいのは、アメリカ公民権運動の時代に製作されたこの映画において、差別意識のベクトルは人間から猿への一方向ではないということだ。テイラーは傷めた喉が癒えてようやくしゃべれるようになるや、「汚い猿ども、オレに触るんじゃない!」と発して、その品性が猿の学者夫婦よりも劣ることを暴露した。ヘストンは後年、マイケル・ムーア監督が高校での銃乱射事件を取り上げたドキュメンタリー映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』(2002年)に全米ライフル協会(NRA)会長として登場し、銃規制を求める世論のなか「銃は死んでも手放さない!」と声を張り上げていた。その姿は老いたりとはいえ堂々と白人の巨躯を誇っていただけに、かえって自滅していく人類のカリカチュアのようにも眺められるのだった。
聖書によれば神が人間のためにつくったとされる他の種に対して、人間は支配する権利をもつ者の傲慢と、反面で、つねに相手への恐怖を抱えてきたろう。その傲慢と恐怖のせめぎあいが、人間同士の異なる民族や宗教のあいだにも持ち込まれたのではないか。だとするなら、われわれはときにはいっそ、猿となって自然界の気楽な一員として過ごしたほうがいいと、そんな思いをめぐらしてみたくもなるのだ。いまでもわが部屋に飾ってあるチャールトン・ヘストンのブロマイドを見やりながら……。
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