チェーホフ著『かもめ』

世間で名声をかちえた者の

とめどない空虚のありさまが


73時限目◎本



堀間ロクなな


 昨秋(2018年)、東京・世田谷文学館で開催された「筒井康隆展」に出かけて、ひときわインパクトがあったのは、奥まった一室で上映されていたチェーホフの演劇『かもめ』の舞台映像だった。約20年前の公演で演出・蜷川幸雄の依頼により、当時60代半ばの筒井がトリゴーリンに扮した際のもの。つまり、流行作家の役柄を、現実の流行作家が演じたという、その意味では貴重な記録だろう。わたしは次第に興奮に駆られて、結局、まるまる第1幕を見通してしまった。



 年甲斐もなく興奮したのはほかでもない、およそ古今の演劇のなかでトリゴーリンほど憎むべき登場人物もそうそう存在しないのではないか。わたしは初めてこの作品と出会ったときの不快な高ぶりが、まざまざと蘇ってくるのを感じたのだった。



 こんなストーリーだ。大女優を母親にもつ作家志望の青年トレープレフは田舎の屋敷で、女優をめざす恋人ニーナと将来を夢見ている。そこに母親の愛人である流行作家トリゴーリンがやってきて、地元の医師やら教員やらも入り乱れるうち、ニーナはトリゴーリンの名声に惹かれ、その著書の一節「もしいつか、わたしの命がお入り用になったら、いらして、お取りになってね」(神西清訳)を指し示すロケットを手渡すと、あとを追ってモスクワへ向かう。そして2年後、新進作家となったトレープレフの前にニーナが現れて、トリゴーリンの子を産みながら捨てられ、女優の道も潰え去り、「わたしはかもめ(ヤ チャイカ)」とつぶやきながら、今後の人生に必要なのは忍耐力と告げて去っていく。それを見送ると、相変わらず母親とトリゴーリンたちがたむろしている屋敷で、トレープレフはピストル自殺を遂げる……。



 そんな不埒な役柄を、映像のなかの筒井は無造作に演じのけていた。が、その双眸はどこかとりとめがなく宙をさまよっているように見受けられた。



 1895年に35歳のチェーホフが「喜劇」と題して『かもめ』全4幕の執筆に取りかかったとき、ヒロインのニーナにはふたりの実在のモデルがあったらしい。ひとりはチェーホフの妹の友人で、妻子ある作家と駆け落ちしたあげくに捨てられている。もうひとりは人妻の女流作家で、チェーホフは彼女から「わたしの命がお入り用になったら」の下げ飾りを受け取ったのちに、「舞台からあなたに返事する」と告げて公演初日に招待したという。であれば、トリゴーリンが体現している人物像の少なくとも半分は作家自身だろう。



 若い時分のわたしは、無垢な少女をもてあそんで破滅させるスケベオヤジにひたすら憎悪を抱いたが、いまこの年齢になってみると、そこにわだかまっているとめどない空虚のありさまのほうに呆然としないではいられなかった。世間で名声をかちえた者の無為――。ここで筒井の演技が差し出してみせたのは、しょせんみずからも世間に操られるだけでしかないデクノボウの姿だったのかもしれない。



 最終場面でトレープレフの銃声が轟くときも、トリゴーリンは自己の過去の言動について、ただ首をかしげてこんな台詞を繰り返すばかりなのだ。



 「覚えがない! 覚えがないなあ!」



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とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍