森田芳光 監督『家族ゲーム』

横一列の食卓のもたらす異化作用が

現代に突きつけるものは?


81時限目◎映画



堀間ロクなな


 森田芳光監督の『家族ゲーム』(1983年)を観た者は、だれしもあの横一列の食卓が強烈な印象に残っているだろう。目玉焼きを「チューチュー」と啜る父親(伊丹十三)以下の4人家族がそこに並んで騒々しく食事しているところへ、高校受験を控えた次男のために家庭教師の大学生(松田優作)がやってきて中央の座を占め、いっそうけたたましい飲み食いをはじめる……。そのシーンには、ちょうどこの映画が公開されたころNHKの朝ドラ『おしん』が盛んに感涙を誘っていたような、わたしたちの内なる家族像をいっぺんに異化してしまう衝撃力があった。



 商業映画デビュー作『の・ようなもの』(1981年)でも森田は、落語家の卵とソープ嬢が高級レストランでボジョレーやエスカルゴを平らげる光景によって、わたしたちの日常性に一撃を加えていたから、この『家族ゲーム』ではハナから確信犯的に食事のシーンがもたらす異化作用を持ち込んだことは間違いない。かくして、家族同士が仲睦まじかろうが仲違いしていようが、ともあれテーブルを囲んでおたがいに交わし合うはずの視線自体を封じてしまったわけだ。



 ただし、それもいまやごく当たり前の一家団欒の図かもしれない。たとえ揃ってテーブルについたとしても、みながテレビに目を向けていればどのみち、各々の視線は一方向に横並びとなっているのだから。すなわち、『家族ゲーム』を観るわれわれのポジションはそのテレビにあり、いわばテレビ画面のこちら側から逆に登場人物たちを見返すという位置関係のもと、結果的にそこにみずからの家族の実態も見出してしまうことが、この映画を観ているあいだじゅうつきまとう居心地の悪さの正体なのだ。



 わたしたちの世代は、かつて食事のあり方に関して両親や社会から厳しく躾けられたものだ。そもそも食事とはごくプライヴェートな営みであり、公共の場であからさまに飲み食いするのは憚られるべきことだった。当時はまだ戦後の社会的格差を引きずっていたから、それぞれの家の食生活の水準にかなりの開きがあった以上、相互に内実を秘めようとしたことも理由だろう。しかし、より根源的には、食欲とは性欲と同じく動物に備わった本能にもとづくもので、したがって公共の場で飲み食いすることには公共の場で性行為をするのに近しい廉恥の感覚が確かに具わっていたと思う。とくに女性は人前で食事をするとき、ハンカチで口元を隠すしぐさがふつうだった。



 そうした感覚がすっかり麻痺したのは、長らくの飽食の時代が育んだ大らかさというものかもしれない。しかし、わたしはかねて不可解なのだ。公共の場であるテレビでグルメ番組がはびこって久しいけれど、今日、食事にも事欠く貧困家庭の子どもが7人に1人の割合で存在していることを、同じテレビのニュースで伝えながら、その子どもたちが自分には手の届かない料理の映像をどのような気持ちで見つめているのか、番組制作者は想像しないのだろうか? いや、かれらだけでなく、われわれ視聴者もなんら恥じらいや痛みを覚えないほど鈍感になったのか?



 『家族ゲーム』では、いかに異様な食卓であっても、そこで食事をする主体はあくまで家族で、テレビ画面のこちら側ではなかった。それから30年あまりを経たいま、四六時中大口を開けて食卓に相対しているのはこちら側で、テレビ画面の向こう側では食事もままならぬ家族の姿があることを思うと、2011年に逝った森田が仕掛けた異化作用はいっそう鋭くわたしたちの日常性を刺し貫いてくるのだ。



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍