「264マラベディ」と「1万円」のあいだ

大人の自習時間 スペシャル



堀間ロクなな


 今春満60歳の定年となったわたしは、同じ勤め先の嘱託社員に再雇用された。学生時代のバイト以来の時給制で、1日7時間の労働でざっと1万円の収入だ。特別な技能や資格を持たないオヤジとしては恵まれた境遇なのだろう。なによりの収穫は、1日分の労働との相関から、1万円の価値が自分の身体感覚をとおして理解できるようになったことだ。最近、老後の生活に年金だけでは月5万円不足するとの金融庁のレポートが物議をかもしているけれど、政治家も官僚もマスコミも、そもそもこうした身体感覚が欠如したまま議論されているところに問題があるのではないか。



 かくて、現在のわたしは当然ながら、1万円を支出するには、それに1日分の労働と引き換えるだけの価値があるかどうかを吟味せずにはいられない。衝動に任せて財布から万札を抜き出すという贅沢はもはや過去のものだ。それも日常の衣食住や交友関係にまつわるものならともかく、自分ひとりのための趣味・娯楽に大枚を費やすなどは厳に慎まなければならない……。



 そんな殊勝な決意を噛みしめた矢先、わたしは仕事帰りに立ち寄った丸善で出くわしてしまったのだ、『セルバンテス全集 第5巻 戯曲集』(水声社)と。あの偉大な『ドン・キホーテ』の作者が舞台活動にも手を染めていたとは知らなかった。定価1万4千円(税別)は1日分の労働対価をずっと上回るではないか、と自問自答しながら、わたしは重厚なその一冊をいそいそとレジへ運んで財布の口を開いたのだった。



 世界演劇史上に燦然と輝きを放つスペインの黄金世紀――。フェリペ4世治下にあってセルバンテスは、まだ文学が近代リアリズムの窮屈さを知らない時代に、どこまで自由奔放にイマジネーションを羽ばたかせたことだろう。本文1072ページのほとんどを占める『上演されたこともない新作コメディア八編と幕間劇八編』の、奇抜なタイトルに早くもただならぬ仕掛けを予想しながら、扉を開いてみると、冒頭にこの本の印刷を認めた勅許状と「販売価格査定書」が掲げられていた。



 「ミゲル・デ・セルバンテス・サアベードラの『コメディア八編と幕間劇八編』は王立諮問院の審議官によって全紙1枚につき4マラベディと査定された。本書は66枚あるので、1枚4マラディアとして264マラディアとなる。

 マドリード 1615年9月22日

 王立諮問院書記 エルナンド・デ・バリュホ」



 当時のスペインにおける出版事情や貨幣価値についてわたしは皆目知るところがないけれど、とまれ王立諮問院のなにがしによって印刷が許可され、264マラベディの販売価格が設定されたことで、この本が世に現われた。そしていま、いともあっけなくわたしの1日分の労働対価をさらってしまったというわけだ。400年あまりの歳月と地理上の距離の隔たりを超えて、お金からお金につながっていくメカニズムさえも、みずからの身体感覚をもって受け止めざるをえない今日このごろなのである。



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍