【創作】いちまんえんさつ物語

はじめて家出をしたのは小3の時だった。

理由はまったく覚えていなくて、多分、母親に理不尽な怒られ方をして腹が立ったとか、家で下着のまま過ごす父親が嫌だったとか、3パックゼリーの残りの1個をどっちが食べるかで兄と大喧嘩をしたとか、そんなところだと思う。

とりあえずわたしは、遠足に使う用の大きめのリュックサックに着替え一式を詰め、家族が寝静まったのを見計らって真夜中にそっと家を抜け出したのだった。

ちょうど今時期のような梅雨と夏の間の頃合いで、湿った夜風が心地よく、火照った頬をひんやりと撫でた。
月がうっすら雲の隙間から見える。

不思議と心細さも心許なさもなかったが、かといって高揚しているわけでもない。もっと「やったー!自由だー!」と思うのかと想像していたけれど、実際に家出をしてみると、案外なんてことなくて拍子抜だった。

『日本誕生』でのび太は「家出だ~!」とあんなに楽しそうだったのに。
そうか、わたしにはドラえもんがいないからか。
そんなことを考えたら一気に寂しくなった。

これから、どうしよう。
町まで車で30分、コンビニもない片田舎である。回りは民家と林しかない。
わたしは唯一の交通手段である赤紫色のマウンテンバイク、通称「よっちゃん号」にまたがり、あてもなく走り出した。

わたしは児童館のそばのブランコのある公園まで行く。そういえば、最近ずっと来ていなかった。というか、もうしばらく公園で友だちと遊ぶなんてこともしていない。
だいたい家で漫画読むか、絵を描いてるかだ。
公園の蛍光灯が、他人のように冷たい。

わたしはおもむろに、ポケットに突っ込んできた一万円札を取り出した。
漢字辞典の後ろに隠しておいた、今年のお年玉の残りである。いつもなら「貯金しておいてあげる」などと言ってあっさり母親に奪われるのだが、なぜだか今年は千葉のおじさんからもらった分だけは手元にあって、こっそりしまっておいたのだった。
せんけんのめい、とわたしはつぶやく。

お札を広げて明かりに照らすと、なんだかとても大きく頼もしく見えた。これさえあれば呪文など唱えなくても、魔法の剣が手に入る。今のわたしは「よるのしはいしゃ」だ。雲に隠れたあの星も、今なら全てわたしのものだ。

そんなことを夢想して一万円札を眺めていたら、ふと、このお札の人は誰だっけ、と思った。
多分、えらい人なのは間違いない。
「雨にも負けず」って言った人だっけ。いや、あれは風の又三郎の人だ。
まじまじ見つめるとお札の人の口が歪んで、「わしの名前も知らんのか」と笑っているように見えた。お札の人なのにむかつくな。
わたしは一度気になったら死ぬまで気になるタイプなので、どうしてもお札の人の名前が知りたくてたまらなくなった。


……。


そうして、わたしは家に帰ったのだった。はじめての家出は誰にも知られることなく、たった数十分で終わった。

翌朝わたしは母親に、一万円札の人の名前って何?と聞いた。
あわただしく洗濯物を干していた母は、
「えー?何?あー、福沢諭吉?」
「ふくざわゆきち。…何した人なの」
「は?えらい人じゃないの?なんか書いた人だよね?もう、そういうのはお父さんに聞いてよ」
振られた父は、得意気に答える。
「学問のすすめ、天は人の上に人を造らず。お前そんなことも知らないのか。ちゃんと勉強しろよー」
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと‘’言えり‘’、だよ。しかもそれ諭吉の言葉じゃねーし」
横から兄が口をはさむ。
「いいからさっさとごはん食べちゃってよー。早く!もう7時半だよ!」
母がベランダで叫んでいるが、正確には7時20分である。
わたしはししゃもを咀嚼しながら、
「ふくざわゆきち、ふくざわゆきち」とつぶやいた。


さて、あの家出から15年たって、わたしは合法的に家を出た。今は、自分の新しい家族と新しい家に住んでいる。

5年後、お札の顔が変わるらしい。
ただ、あまり興味はない。


※この創作はフィクションですが、また例によって7割は実話です。


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とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍