カルロス・クライバー指揮『ニューイヤー・コンサート』

日本が最も愛し、

日本を最も愛した天才指揮者の孤独


95時限目◎本



堀間ロクなな


 振り返ってみると、クラシック音楽がビジネスとして最も隆盛を誇ったのは1970~80年代ではなかったか。それは欧米でも同様だろうが、とくに高度経済成長を達成してバブル経済へ向かう時期にあった日本では、国内レコードメーカーから毎月おびただしい新譜が発売される一方、ひっきりなしに海外のオーケストラやオペラハウスが押し寄せて空前の活況を呈したものだ。その先導役となった指揮者は、カラヤン、ベーム、バーンスタインといったスーパースターたちだが、かれらに勝るとも劣らない輝かしい存在として君臨したのがカルロス・クライバーだった。



 往年の名指揮者エーリヒ・クライバーを父として、1930年ベルリンに生まれたカルロス(出生名カール)は、ナチスの台頭にともない家族ぐるみで亡命した先のアルゼンチンで育つ。戦後ヨーロッパに戻ってから、父の反対を押し切って指揮者の道に入り、おもにドイツ国内の歌劇場で地道な経験を積んで、1973年ウィーン国立歌劇場、翌年イギリスのロイヤル・オペラにデビューしたころから大きく注目されるようになる。



 ただし、ヨーロッパから遠く離れた日本では多少事情が違って、わたしの記憶では、1975年にウィーン・フィルを指揮して録音したベートーヴェンの『運命』が人気急騰のきっかけだったと思う。このクラシック音楽の代名詞ともいうべき交響曲の、すでに掃いて捨てるほどあるレコードのなかで、それは他のどんな演奏とも異なり、LPに針を落とした瞬間、唸りをあげて一気呵成に走り抜ける音楽のエネルギーに鳥肌が立ったことを覚えている。



 以降も、クライバーの指揮で交響曲やオペラの新録音が発売されるたびに話題を呼んで必ずベストセラーとなったが、あまりの完璧主義者ゆえに、ファンの期待からするとそれらはわずかな点数でしかなかった。かくして、世にいうところの海賊盤の分野でクライバーはトップの座につき(次点はチェリビダッケ)、東京・秋葉原にあった某ショップはその手の違法レコードを求めて迷える子羊たちで賑わい、ときにはカウンターの店員がそっと近日発売予定のリストを手渡してくれたのも懐かしい思い出だ。



 そのクライバーは1974年以降、数回にわたって来日公演を行った。ただし、たいていウィーン国立歌劇場やミラノ・スカラ座を率いてのオペラの引越し公演で、それらのチケットは当時のわたしには手が届かないほど高額だったうえ、キャンセル魔として知られたかれは当日指揮台に上がるまで実際に演奏するかどうかわからない事情もあって、とうとう一度も実演に接することができなかった。



 そんないじましいファンにとって驚愕のニュースが飛び込んできたのは、1988年秋のこと。なんと、新春のウィーン・フィル恒例『ニューイヤー・コンサート』の指揮者にクライバーが選ばれ、テレビでライヴ中継されるというのだ。その日、その時刻、ブラウン管の前で固唾を呑んで待ちこがれた日本じゅうのファンの、わたしもひとりだった。そして、ついにクライバーが現れて、さすがに緊張の面持ちでタクトを一閃すると、弦のセクションが精密なリズムを刻みはじめ、左手が大きく旋回するなり一気に音楽が膨れあがって、ヨハン・シュトラウスⅡ世の『加速度円舞曲』が炸裂した……。あの一夜は、われわれがまさにクライバーと同じ時空を共有する体験だったと、いまもDVDを見返すたびに至福の記憶を噛み締めている。



 やがてクライバーは急速にステージから遠ざかり、20世紀の終焉とともにファンの前から完全に姿を消してしまう。最近、ゲオルク・ヴェーブボルト監督によるドキュメンタリー『I am lost to the world』を見て、クライバーは公演以外にもしばしば日本を訪れて、知人への手紙に「コンサートをやるだって? まっぴらごめんだ! 友よ、私の手には負えない。何も心配せずに甘やかしてもらえるのは日本だけだ」と書いていたことを知った。これは日本での出演料が高額だったのも理由だろうが、そればかりでなく、父親のエーリヒが残した巨大な重圧にあえいでいたとされるかれは、深い孤独のなかで、ヨーロッパと違ってエーリヒへの記憶が存在しない極東の島国に心の安らぎを見出したのではないか。



 さらには、みずからの放縦な女性遍歴でさんざん泣かせたはずの妻スタンカが亡くなったのち、2004年7月8月にはこんな手紙も残している。「家内がいなくなってとても寂しい。彼女はサムライだった。私は何なのだろう? 意気地なしだ」--。クライバーは日本の「侍」に何を見ていたのだろう。かれが世を去ったのはその5日後、一説には自死といわれている。



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とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍