キャンディーズ歌唱『春一番』
あの夏、病院のベッドで
わたしを慰めてくれた歌声がふたたび
98時限目◎音楽
堀間ロクなな
正直に告白すると、怖いもの見たさだった。元キャンディーズの伊藤蘭が41年ぶりに歌手に復帰してリリースした、初のソロ・アルバム『マイ・ブーケ』。いまさら、新たな感動を期待するほうが酷というものだろう。その先頭に置かれた本人作詞の『Wink Wink』(佐藤準作曲)は前奏もなく、いきなり2拍子のリズムにのってうたい出される。
新しい季節の扉が開いて
気まぐれな風達に 今
誘われ歌うの
気づいたときには、熱いものが両頬を濡らしていた。それは、伊藤のとうてい64歳とは信じられない透明な歌声のせいもあったろうが、それ以上に、わたしの脳裏に眠っていた記憶が忽然とよみがえってきたからだ。
あれは18歳の夏だった。生まれつき副鼻腔炎を患っていたわたしは、次第に症状が重くなってきて、その原因の鼻骨の歪みを矯正するため、大学1年の夏休みに2週間ほど入院した。鼻の片方の穴からノミを入れて余分な骨を削り取るという、文字どおり単刀直入な手術で、事後はベッドで仰向けになったままひたすら安静にしていなければならなかった。あらかじめ枕元に岩波文庫の『ファーブル昆虫記』を用意しておいたものの、両手を使えないばかりか、そもそも絶え間ない痛みに読書どころではなく、そのときに何よりの伴侶となったのが、キャンディーズのカセットテープだった。
雪が溶けて川になって 流れて行きます
つくしの子がはずかしげに 顔を出します
もうすぐ春ですね
ちょっと気取ってみませんか
『春一番』(穂口雄右作詞・作曲)だ。ベッドの上で身動きもできないやるせなさを、彼女たちの弾ける歌声がどれだけ慰めてくれたことだろう。のちに、ヴィヴァルディの『四季』の第1番やら、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第5番やら、「春」と題された名曲を知ってそれぞれに惹かれたけれど、しかし、わたしにはやはり最も辛かった時間を共有したものが最高だ。あのアップテンポの歌がはじまったとたん、いまがどんな季節であれ、目の前に春の陽光がいっぱいに差し込んでくる思いに駆られるのだ。
当時、キャンディーズはすでに近い将来の解散を宣言して、伊藤の「ふつうの女の子に戻りたい」というフレーズが流行語となっていた。また、入院中の一夜には、ラジオのプロ野球中継に耳をそばだて、ジャイアンツの王貞治が世界記録となる756本目のホームランを放った快音の瞬間、鼻の痛みも忘れてひとり歓声を挙げたことも覚えている。そう、あの夏はわたしにとって少年期と訣別するかけがえのない儀式の日々だったのだ、『春一番』に祝福されて。
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