佐藤純弥 監督『新幹線大爆破』

テロの恐怖は

当事者のすべてが敗北することだ


105時限目◎映画



堀間ロクなな


 もう半世紀近くも昔の映画だというのに、『新幹線大爆破』(1975年)はなぜいまだに戦慄をもたらすのだろう? わたしも久しぶりに見直して、2時間半のあいだ背筋が硬直してしまった。同じ年に日本で公開された『タワーリング・インフェルノ』と競合する形になって興行的には割を食ったそうだが、豪華スターを集めて超高層ビル火災を描いたハリウッド映画よりも、こちらのほうがずっと恐ろしい。



 発端は、東京から博多に向かう「ひかり」に爆弾を仕掛けたとの電話が入ったことだ。その爆弾は列車が時速80km以下になると爆発する仕組みで、15億円の現金と引き換えに解除方法を教えるという。犯人の工場主(高倉健)ら3人は高度経済成長から落ちこぼれた男たちで、かれらの社会への復讐心にもとづく事件はれっきとしたテロと見なせるだろう。ただちに警察が捜査に動く一方で、1500人の乗客をのせた「ひかり」は運転指令センターの室長(宇津井健)の指示のもと、運転士(千葉真一)の懸命な操作で高速のまま突っ走っていく。果たして、犯人グループの計画どおり運ぶのか、警察が阻止するのか。列車の乗客たちは生還できるのか……。



 このサスペンス・ドラマをゲームにたとえるなら、それを支えているのはつぎの3つのルールだ。〔1〕当時は国鉄の東海道新幹線と開業したばかりの山陽新幹線をつなぐ起点(東京)から終点(博多)までは約1000kmで、〔2〕この距離を平均時速100kmで走行した場合の約10時間が危機解消のための制限時間であり、〔3〕もしその間に何らかの事情で列車が時速80km以下に減速すれば、そこで爆発とともにゲーム・オーヴァーとなる。つまり、どんな状況下でも定められた運行を維持できる科学技術とマンパワーの備わっていることが前提だ。



 実のところ世界じゅうを見渡しても、以上の3つのルールはおいそれと成り立たないだろう。そもそも距離1000kmの高速鉄道が存在するのは、地理的・経済的に日本と同じようなスケールの国のはずで、それよりも小さければありえないのはむろん、逆にはるかに大きな国の大陸横断鉄道のようなサイズでは走行時間が長大におよんでこうしたゲームも馴染まない。さらに高度な科学技術とマンパワーが条件に加わるとしたら、映画制作当時のみならず、それから半世紀近くを経た現在も、3つのルールをすべて満たす国は他にないのではないか。つまり、ここに描かれているのは日本固有のテロのシミュレーションであり、そのことがわたしたちの背筋をゾクゾクと刺激するのだ。



 「小の虫を殺し、大の虫を生かさなければならない場合もある」



 映画の終盤で、運転指令室長は上司からこう告げられた。タイム・リミットが迫るなか、ようやく車両下の爆弾を発見して無力化したが、爆弾はそれだけなのか不明のため、なおも慎重を期して走行を続けたいとの主張に対して、上層部は、もし博多駅周辺の市街地で爆発が起きたら大惨事になる、仮にまだ爆弾が残っていても被害を最小限に抑えるべきだとして、手前の田園地帯で「ひかり」を停止させることを命じる。そのときの説得のセリフだ。室長は命令にしたがい、結局、ほかに爆弾はなくて無事に済んだものの、かれは最後に乗客を見殺しにする側にまわった自分が許せない……。



 かくて事件は終結した。しかし、死を遂げた3人の犯人ばかりでなく、警察も、国鉄当局も、そして乗客たちも、だれもが深い傷を負ってもはや癒す術もない。そう、テロの恐怖はひとりの勝者もなく、当事者のすべてが敗北することなのだ。来年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、国をあげてのテロ対策が本格化したいまだからこそ、この映画が突きつけるメッセージはいっそう重い。



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍