清水 宏 監督『有りがたうさん』

最も美しい日本語を

発することの難しさはいまも


114時限目◎映画



堀間ロクなな


 「ありがとう」とは、おそらく最も美しい日本語ではないだろうか。清水宏監督の『有りがたうさん』(1936年)は、まさにその「ありがとう」を主役にした映画だ。原作はのちのノーベル賞作家・川端康成の名がクレジットされ、文庫本でほんの5ページの掌編だ。そこにはこんな記述がある。



 乗合馬車に追い附く。馬車が道端へ寄る。

 「ありがとう。」

 運転手は澄んだ声ではっきりと言いながら、啄木鳥のように頭を下げていさぎよく敬礼する。

 材木の馬力に行き違う。馬力が道端へ寄る。

 「ありがとう。」

 大八車。

 「ありがとう。」

 人力車。

 「ありがとう。」

 馬。

 「ありがとう。」



 一方で、清水監督は『伊豆拾遺』というエッセイのなかで、主人公のバスの運転手には現実のモデルが存在することを明かして「この運転手君も、気持ちのいい実直勤勉な人である」と書いているから、いわば虚実ないまぜの態度でつくられた作品と見なしたほうがよさそうだ。



 そうした事情は、清水監督が得意とするオールロケの手法によっていっそう拍車がかかっている。伊豆半島の下田から三島へ向かって、ふたつの峠を越えながら山道を辿っていく一台のバス。道行く人々や荷馬車がよけてくれるたびに「ありがとう」と声をかけることから、「有りがたうさん」のあだ名がついた若い運転手には二枚目俳優の上原謙が扮し、本人が実際にバスを運転して、カメラはつねに至近距離でかれと乗客たちの姿を捉えているため、架空のドラマであると同時にドキュメンタリーでもあるように見えるのだ。



 バスには酌婦のアネゴやら居丈高なオヤジやら有象無象が乗り合わせているものの、ドラマの中心は、貧窮のために母親につきそわれて東京へ身売りされていく17歳の娘だ。相手に「有りがたうさん」はこう告げる。「この秋になって、もう8人の娘がこの峠を越えたんだよ。製糸工場へ、紡績工場へ。それから、それからほうぼうへ。オレは葬儀自動車の運転手になったほうがよっぽどよかったと思うことがあるよ。峠を越えた女は滅多に帰っちゃこないからね」。そして、最後には自分が蓄えた貯金を差し出して彼女を救うことに……。絵に描いたような人情劇の成り行きだけれど、むろん、こうした小さな善意がなんら現実の解決にならないことは当時の観客にも明白だったろう。



 前記のとおり、この映画が制作されたのは1936年(昭和11年)だ。すなわち、二・二六事件が帝都を揺るがした年であり、その余燼がくすぶる時期にカメラは回されたことになる。陸軍青年将校の蹶起趣意書に「(元老・重臣らが)万民の生成化育を阻碍して、塗炭の疾苦に呻吟せしめ」とあるとおり、クーデタの動機のひとつは国民を貧窮に陥れた元凶を排除することにあった。つまりは、かれらを突き動かした時代状況の縮図がこのバスで、いまや軍靴の響きとともに国を挙げての戦時体制へと向かおうとする、「ありがとう」ではニッチもサッチもいかない激流のなかで、あえてこの言葉を主役にして映画をつくったところが清水監督の真骨頂なのだ。



 こうした「ありがとう」をめぐる社会的な緊張は、果たして遠い過去のものだろうか。そうではあるまい。21世紀の現在も連日のニュースを眺めるにつけ、もし当事者がその言葉を発していればことなきを得たろうに、と思われる事例のなんと多いことか。いや、他人事ではない。人生100年時代が標榜されているいま、それだけの寿命に恵まれながら、最後に「ありがとう」のひと言を残して世を去ることはだれしも至難の業なのではないか。そう、最も美しい日本語に対して、いつまでも虚実ないまぜの態度で向き合っているのは、他ならぬわたしたち自身なのかもしれない。


一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍