ヴァレーズ作曲『イオニザシオン(電離)』
未来への道を照らし続ける
永遠の現代音楽
140時限目◎音楽
堀間ロクなな
クラシック音楽には「現代音楽」というジャンルが存在する。ただし、その領域はたぶんにファジーで、大型レコード・ショップの現代音楽のコーナーには、ともすると100年以上も昔に音楽史に登場したシェーンベルク、ヴェーベルン、ベルクらの新ウィーン学派がいまだに居据わっていたり、そうかと思うと、1970年代まで活躍したストラヴィンスキーやショスタコーヴィチが当たり前のようにモーツァルト、ベートーヴェンと同列に並んでいたりする。すなわち、現代音楽とは時代的な位置づけだけではなく、その作曲家が行使した手法のほうにむしろ大きく関与していよう。だから、現代音楽と聞くと、心あるクラシック・ファンでもたいてい腰が引けるし、同業の作曲家たちにも現代音楽嫌いを公言する向きが見られるのだ。
いわばふつうのクラシック音楽と、そうした鬼っ子のような現代音楽との境界は、私見ではずばり、1928年のラヴェル作曲『ボレロ』と、1929~31年のヴァレーズ作曲『イオニザシオン』とのあいだに深い亀裂をなして横たわっていると思う。
エドガー・ヴァレーズは、ラヴェルよりも8年遅れて同じフランスに生まれた作曲家であり(のちアメリカに帰化)、パリ音楽院などでオーソドックスな教育を受けたのちに、音楽は「組織された音響」と開眼して、それまでのリズム、メロディ、ハーモニーを基本要素とする音楽の秩序に囚われない作品をめざした。48歳のときに完成した『イオニザシオン』は、13人の奏者が37の打楽器によって異質の音をぶつけあうというもので、打楽器だけで構成された初のクラシック音楽と見なされている。そこにはチューブラ・ベル、グロッケンシュピール、ピアノといった音高のある楽器のほか、高低2種のサイレンも導入され、それらによって約6分間にわたって繰り広げられるカオスの音響世界は、ラヴェルの『ボレロ』がたとえ異形の音楽だとしても伝統のうえに立脚していたのに対して、過去の調和を捨て去り、未来のとめどない喧騒と孤独を先取りしたかの印象がある。
いまの耳で聴いても斬新な音楽の内容に加えて、この作品の現代音楽らしさには意表を突いたネーミングも与っているだろう。およそモーツァルトやベートーヴェンが自作にこんな名称をつけるわけがない。イオニザシオン(電離)とは、物質が正や負の電荷を帯びる現象のことで、これによって固体、液体、気体に続く第四の状態としてプラズマが生じるという。そのイメージから、わたしはヴァレーズと同時代を生きた詩人の言葉を思い起こさずにはいられない。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
そう、宮沢賢治が生前に自費出版した詩集『春と修羅』(1924年)の冒頭の一節だ。電気というものが社会をくまなく支配するようになったこの時期、それまで人類が長らく歩んできた暗黒のカオスを白々とした明かりが照らすところから現代人の感性は発祥したろう。その意味で、『イオニザシオン』はこれからも聴衆に人気を博することのない宿命を負いながら、未来への道を照らす永遠の現代音楽であり続けるはずだ。
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