ギュンター・ヴァント『ライヴ・イン・ジャパン2000』

それはオーケストラの演奏というより

ふたつの「未完成」をめぐる秘儀だった


149時限目◎音楽



堀間ロクなな


 これまでわたしが体験したコンサートのなかで最も張りつめた雰囲気だった。当夜の記憶が蘇ると、いまでも背筋がのびる。2000年11月13日、東京オペラシティ・コンサートホール〈タケミツ・メモリアル〉。やっとチケットを入手して馳せ参じた会場は、その大半が中高年男性の思いつめた顔つきに占められていた。やがて、北ドイツ放送交響楽団のメンバーが楽器を手にステージへ出てきて各々の席につく。コンサートマスターが立ち上がりチューニングを済ます。凄まじい静寂、というのも奇妙な表現だけれど、息苦しいほどの緊迫した間合いがあって、下手から介添え役にすがってギュンター・ヴァントが登場すると万雷の拍手喝采が迎えた。そのテンションの高さは、88歳の指揮者へのねぎらいをはるかに超えるものだったろう。



 ドイツのラインラント地方に生まれたヴァントは、第二次世界大戦前にキャリアをスタートさせたが、長らく地味な活動にとどまっていたところ、1982年に北ドイツ放送交響楽団の首席指揮者に就任して以降、次第に広く知られるようになり、1990年代に入ってからは世界的に大ブレークして、ベルリン・フィルやミュンヘン・フィルをはじめ超一流オーケストラから引く手あまたの存在となった。



 指揮者はみずから楽器を演奏するわけではないので、自分の意思をオーケストラに伝えられるかぎりいくつになっても仕事ができるし、年齢を重ねるにつれて音楽の説得力が増していくという面もありながら、それにしても80歳に達してこれほど爆発的な人気に火がついた例は他にないだろう。この異常現象についてはさまざまに取り沙汰されたけれども、わたしなりにいま振り返って考えてみると、ふたつの大きな要因があったのではないか。ひとつは、20世紀後半のクラシック音楽を牽引してきたスター指揮者のカラヤンとバーンスタインが1989年と1990年に相次いで世を去って、その空白を埋めるべき指揮者が求められたこと、もうひとつは、あのころチェリビダッケや朝比奈隆など、ブルックナーの長ったらしい交響曲を得意とする長老指揮者がひときわ後光を放ったこと、その双方の要因がヴァントに注ぎ込んでほとんど神格化と言っていい事態を招いたのだと思う。



 かくして、ヴァントの新たな来日公演を望む声が男性ファンに盛り上がったものの(女性はたいていブルックナーに冷淡)年齢的に不可能だろうと諦めていた矢先、突如、本人の希望により東京公演の運びとなって、一部には老指揮者を気遣っての反対運動さえ起きたなか、この日を迎えたのだった。プログラムはシューベルトの交響曲第8番とブルックナーの交響曲第9番。すなわち、19世紀ドイツ・ロマン派の劈頭と掉尾を飾ったふたつの偉大な「未完成」というわけで、確かにこうしたプログラムを有無言わさぬ説得力で振り切れる指揮者はおいそれと存在しなかったろう。



 介添え役に助けられたヴァントは、瘤のような背中が痛々しいほどだったが、指揮台に辿り着くと、椅子は使わずに二本の足ですっくと立った。手元にスコアはないから、すべて暗譜でやるらしい。そして、最初のタクトが力強く振り下ろされてシューベルト「未完成」の冒頭の低弦が唸り出したとたん、わたしの双眸から熱い涙が噴きだして視界が溶けた……。以後の約2時間にわたる音楽の大伽藍について、いまさらたどたどしい文章で説明してもはじまらない。この日、わたしたちの眼前で繰り広げられたのはオーケストラの演奏というよりも、ヴァントの司祭のもとで、ふたつの「未完成」をめぐる秘儀だったと理解したほうが真相に近いだろう。なお、幸いにもこのときの模様は『ライヴ・イン・ジャパン2000』のタイトルでDVDとなっている。



 この奇跡的な来日公演の1年3か月後にヴァントは90歳で死去した。その直前に自宅で行われたインタビューもCDに残されて、そこには本人がしわがれ声で秘儀の内実をこのように解き明かしていることをつけ加えておこう。



 「我々のこの社会は、『お楽しみ社会』などと言われ、メディアを通して押し売りされている。しかしそんなものはお楽しみでもなんでもない。(略)先ごろロンドンのプロムスでハンブルクのオーケストラと一緒に、2曲の未完成交響曲を演奏しました。シューベルトとブルックナーの。(略)7000人の聴衆です。なのにシンと静まりかえって、コトリとも音がしない。(略)ああいうのを体験すると、嬉しいなどというのを通り越して、強く心を打たれます。こんなことがそもそも可能なんだと。それもこの『お楽しみ社会』で。たくさん、たくさんいるのですよ。全く違った風に感じ、考えている人間が。この軽薄な世間とは違った風にね」(舩木篤也訳)


一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍