フォン・シーラッハ著『コリーニ事件』

こうした真摯なミステリーが
日本に出現する可能性はあるのか


151時限目◎本



堀間ロクなな


 2001年の初夏、東京・帝国ホテルの一室で殺人事件が起こった。被害者は87歳の大手機械メーカー元社長で、気さくな人柄で知られ、この日も財界の重鎮として雑誌の取材を受ける予定だった。犯人は67歳の中国人の男で、インタビュアーを装って部屋に侵入するなり4発の銃弾を浴びせて相手を即死させたあと、現場にとどまっていたところを逮捕された。新米弁護士の「私」はその国選弁護人を引き受けたものの、男は犯行の動機について頑なに口を閉ざして明かそうとしない。なんら弁護らしい弁護もできずに裁判は進んでいったが、結審間際の土壇場で思いがけない真相が判明する。



 殺された元社長は第二次世界大戦中、中国の上海で憲兵隊長として反日活動家グループの摘発と殲滅に従事していた。ある日、数人の部下と押し入った商家に火をつけ、うろたえる父親を裏庭へ引きずっていって問答無用で銃殺したようすを、土塀の穴からそっと長男が目撃していた。かれらが立ち去ったあと、家の焼け跡からは足の不自由だった姉の黒焦げの遺体が見つかる。そう、犯人の男は半世紀あまりの歳月を経て父と姉の復讐を果たしたのだった……。



 フェルディナント・フォン・シーラッハの『コリーニ事件』(2011年)が描く、ドイツ人の被害者とイタリア人の真犯人による事件の構図を日本に置き換えて翻案してみると、ざっと以上のようなストーリーになるだろう。著者は1964年ミュンヘンに生まれ、ボンの大学を卒業後、ベルリンで刑事事件の弁護士をつとめるかたわら、その仕事の現場で出会ったさまざまな人間模様をもとにまとめた短篇集『犯罪』『罪悪』が世界的に注目されたのち、初の長篇として発表したのがこの小説だ。手練れのミステリー・ファンにとっては、容疑者が犯行を自供しながら動機については黙秘するという成り行きはありきたりだし、それが秘められた遠い過去の出来事を暴いていくというプロットも目新しいものではないだろう。この作品の真価はまったく別のところにあるのだ。



 実は、著者の祖父バルドゥール・フォン・シーラッハは、かつてヒットラー政権下でナチ党全国青少年指導者やウィーン大管区指導者などの要職に就いた人物で、戦後のニュールンベルグ裁判で禁固20年の判決を受け、1966年に刑期が満了して釈放されてからは幼い孫と交流の日々を過ごしたという。すなわち、その孫のフェルディナントにとって、この作品はミステリー小説の形式を借りながら、祖父の世代の戦争犯罪を改めて直視し、自分もその責任を負う立場につらなることを表明した宣言なのだ。



 さらには、ドイツ人の資産家にはモデルがあるらしい。大戦中、イタリアにおいて「ジェノヴァの死刑執行人」と恐れられた親衛隊保安部のフリードリッヒ・エンゲル管区司令官で、在任中に59名のパルチザンを殺害したとされ、2002年に至って裁判でいったん禁固刑が言い渡されたものの、ドイツ連邦裁判所は証拠不十分で正犯者と見なさず、それによって時効の成立が認められて無罪になったという。いまなお戦時下の事件をめぐって多くの当事者・関係者が厳しい論戦を繰り広げている状況のもと、著者がこれを題材とするのにはさだめて勇気を要したことだろう。



 スタンリー・クレイマー監督の映画『ニュールンベルグ裁判』(1961年)は、ヒットラー政権下の法曹界の戦争責任に迫ったものだ。ドイツ軍将校の夫を絞首刑に処せられた未亡人(マレーネ・ディートリヒ)は、仇敵のはずのアメリカ人の裁判長(スペンサー・トレイシー)に自宅を宿舎として提供するにあたって、「生きるためには忘却が必要ですから」と伝える。すでにソ連との対立が深刻化して、いまさら過去を問うている場合ではない、ドイツの世論を味方にするためにも被告らを免罪するべき、との空気が法廷に蔓延するなか、裁判長はあくまで「忘却」を拒絶して有罪を宣告する。法曹人のフォン・シーラッハもまた、あえてはるかな過去の戦争犯罪への「忘却」を拒絶してみせたと言えよう。日本語版の『コリーニ事件』の巻末にはつぎのエピグラムが添えられている。



 「本書が出版されて数ヶ月後の二〇一二年一月、ドイツ連邦共和国法務大臣は法務省内に『ナチの過去再検討委員会』を設置した」(酒寄進一訳)



 そう、この作品を契機としてドイツ国内ではナチ犯罪者の時効に関して見直しの検討がはじまったのである。翻って、第二次世界大戦でドイツと同盟関係にあった日本の現状はどうか? たとえば、冒頭で翻案として示したようなストーリーの、真摯なミステリー小説が出現する可能性は果たしてあるのだろうか……。


一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍