阪東妻三郎 主演『雄呂血』
なぜチャンバラに血が騒ぐ?
その秘密を解く鍵がここにある
168時限目◎映画
堀間ロクなな
そのへんの棒きれや木の枝をつかんで腰の脇に携えたとたん、ふつふつと血が騒ぎだし、いつでも目の前の敵を斬り伏せるべく深呼吸がはじまる……。子ども時分にそんな高揚感を味わったのはわたしだけではないだろう。いや、子ども時分にかぎらない。還暦を過ぎたいまだって、もしも刀に見立てたものを手にして身構えたならば、やはり下腹部からエネルギーが込み上げてくるような気がするのだ。まったくもって、チャンバラにはどうしてこれほどの作用があるのだろう?
その秘密を解く鍵が『雄呂血(おろち)』にあると思う。大正14年(1925年)に「日本映画の父」牧野省三の総指揮のもと、二川文太郎監督、阪東妻三郎主演で制作されたこの映画はサイレント(無声)ながら74分の長尺で、当時としては破格の大作だった。のみならず、以来、これを凌ぐチャンバラ映画は出現していないという、このジャンルの極北でもあるのだ。草創期の大半の作品が失われてしまった今日、『雄呂血』のフィルムがほぼ完全な形で残されて鑑賞できるのは大いなる僥倖だ。
ストーリーはざっとこんな具合。ときは享保のころ、若侍の久利富平三郎(阪東妻三郎)は心根のまっすぐな正義漢なのだが、運命の歯車が外れたのか、やることなすこと意に反した結果を招いてしまう。漢学塾では師匠に嘱望され、その娘と相思相愛の仲だったにもかかわらず、家老の倅の門下生といさかいを起こして周囲から疎まれ、藩を追われる羽目になる。流浪のなかですっかり無頼漢と化し、ところ構わず喧嘩沙汰を演じたり、あえなく牢獄につながれたり、そこから脱走して人々に慕われる親分の用心棒となったり……。
だが、その義侠の親分は大の悪党で、ある日、かどわかした若妻に毒手をのばす現場に出くわすと、それはかつて恋仲だった漢学塾の娘ではないか。ことここに至って、平三郎の溜まりに溜まった憤怒が爆発する。あたかも世間の理不尽にたったひとりで立ち向かうかのごとく、無数の捕り方たちを相手に一世一代の闘いを挑んで、その壮烈な殺陣は実に27分の長丁場におよぶのだ。たとえ粒子の粗い白黒の画面であっても、われわれは一瞬たりとも目を離せないうちに両手が汗ばみ、やがて全身がわなないてくる。
『雄呂血』の冒頭には、サイレントの作品だけに文字ではっきりと映画の主題が示されている。曰く。
「世人……無頼漢(ならずもの)と称する者 必ずしも無頼漢のみに非らず 善良高潔なる人格者と称せらるゝ者 必ずしも真の善のみに非らず 表面善事の仮面を被り裏面に奸悪を行ふ大偽善者 亦我等の世界に数多く生息する事を知れ……」
ごく月並みな主題と言っていいだろう。おそらく、たまの休みになけなしの小遣いをはたいて映画館に集まってくる庶民大衆にとっては、ふだんの生活でさんざん見聞していることに違いない。これを一般的なドラマに仕立てると、大別して、(1)偽善者に虐げられてきた主人公がやむにやまれず立ち上がり、その悪事を暴いて世間の目を覚まさせるという勧善懲悪の方向か、ないしは、(2)偽善者にいったんは歯向かった主人公だがついに敵わず、世間には相も変わらぬ悪事がはびこるというリアリズムの方向か、そのいずれかになるだろう。(1)の場合、観客は束の間溜飲を下げるけれど、映画館を出たとたん、実際にはありえないことに気づいて白けるだろうし、(2)の場合、わざわざカネを払った映画に砂を噛むような現実の理不尽を教えられ、後味の悪さをどうすることもできないだろう。
ところが、ここにチャンバラが導入されるやいなや事態が一変する。デッチ上げの勧善懲悪や苦いばかりのリアリズムなど蹴散らし、スクリーン狭しと血煙のなかを暴れまわる剣客と一体となって、善男善女の観客たちも心ゆくまで気を吐くことができる。みずからの不如意な日常をまるごと引っ繰り返せるのだ。
もとより目の前に斬り伏せるべき敵が現れることはない。なぜなら、本当の敵は自分の外側ではなく内側にとぐろを巻いているのだから。しょせん絵空事とはわかっている。わかっていながら、小心者のわたしでさえも、かくしてたった一本の棒きれを手につかむだけで力がみなぎってくる仕掛け、それがチャンバラの秘密である。
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