まずは本当の言葉を取り戻すことから

大人の自習時間 スペシャル「新型コロナが変えた私の人生観」



堀間ロクなな


 昨秋のラグビーW杯ではわたしもご多分に漏れず、にわかファンのひとりとなって日本代表の快進撃に快哉を叫んだクチだ。いまにして振り返ると、あんな無邪気な熱狂はもう二度と体験できないことに思い至って愕然としてしまう。なぜなら、あの日本じゅうが唱和した「ワンチーム!」の熱狂とは究極の3密であり、つまり新型コロナが登場する以前だからこそ成り立ったものなのだから。



 今年2月に横浜港のクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号で多数の感染者が発生して以降、メディアのニュースは新型コロナ一色に塗りつぶされてきたように思う。この間、3密からはじまって、つぎからつぎへ目新しいキャッチフレーズが繰り出された。アベノマスク、外出自粛、巣ごもり、テレワーク、オンライン飲み会、緊急事態、定額給付金、自粛警察、コロナ離婚、ソーシャル・ディスタンス、新しい日常……。だが、それらのキャッチフレーズをさかんに消費しながら、その実、連日の報道は似たり寄ったりの反復でしかないうえに、新型コロナ関連以外のニュースはほとんど皆無という情報空間が現出したのである。



 とどまるところを知らない多弁症と、なんら語るべきものを持たない失語症とが表裏をなしたような、メディアの精神病理学的状況が意味するところは、新型コロナがもたらしたのが想定外のアポリア(難問)だったことに他ならない。ようやく緊急事態宣言が全面解除され、メディアは各地で活況を取り戻しつつあることを報じているけれど、われわれは依然として新型コロナに呪縛されたままなのだ。眼前に立ちはだかる問いに対して、いまだに答えを見出せていない以上。



 わたしの脳裏をよぎるのは、アルフレッド・ヒッチコック監督の映画『鳥』(1963年)のラストシーンだ。初めて目にしたときの衝撃はいまも生々しい。アメリカ西海岸のひなびた港町で、カモメ、カラス、スズメといった日常にありふれた鳥たちが突如大挙して人間を襲いはじめる。まさに自然が発狂したかのような事態だが、それはあくまで人間の側の言い分であって、自然のほうからすればごく当たり前の摂理にもとづくものかもしれない。今度の新型コロナがそうであるように。ヒッチコックは例によってそのへんの不条理を見据え、鳥たちが真っ先に力の弱い老人や女子どもに襲いかかって殺戮していくさまを容赦なく描く。



 主人公の弁護士(ロッド・テイラー)とガールフレンド(ティッピ・ヘドレン)らは別荘に立てこもって凄まじい攻防を演じた末に瀕死の重傷を負い、鳥たちがいったん鳴りをひそめたすきに脱出を企てる。深夜。青ざめた月明かりが雲間から差し込み、はるかな海は銀色の波を刻んでいる。そして陸上は見渡すかぎり鳥たちがひしめきあうなかを、かれらの乗った車がひそやかに縫っていく。自然の猛威が世界を覆い尽くしたときの恐ろしさだけでなく、その美しさにも息を呑ませるラストシーンだ。あるいは黙示録的光景と言ったらいいか。たとえば、つぎの一節が示すような……。



 「また見しに、一つの鷲の中空(なかそら)を飛び、大なる声して言ふを聞けり。曰く『地に住める者どもは禍害(わざはひ)なるかな、禍害なるかな、禍害なるかな、尚ほかに三人の御使の吹かんとするラッパの声あるに因りてなり』」(ヨハネ黙示録第八章)



 神の使いの子羊が七つの封印を解いたのちに、七人の天使が七つのラッパを吹いて人類の災厄を伝える。その第四のラッパが吹き鳴らされて、太陽、月、星の三分の一が暗くなったあとの描写だ。これはまた、われわれ自身がいま目の前にしているものではないのか?



 そう、災厄は終わらない。新型コロナの第二波、第三波が訪れるばかりか、この夏にはふたたび猛暑や豪雨・水害が襲来するだろうし、さらには遠からず巨大地震の発生も高い確率で予測されている。まさしく「禍害なるかな、禍害なるかな、禍害なるかな」。そうした苛烈な試練を乗り越えて、未来に向けて足を踏み出していくために、われわれに重大な問いを突きつけたのが新型コロナだったのではないか。束の間の熱狂にわれを忘れるのではなく、目新しいキャッチフレーズの連発に興じるのでもなく、まずは本当の言葉をひとつでもふたつでも取り戻すことからはじめなければ――。それを教えてくれているように、わたしには思えるのだ。


一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍