駐車場の地域猫

                                  黄 文葦


 家の近くに広い駐車場があった。雑草が生い茂って、色とりどりの野花が咲き誇っていた。駐車場といっても、あちこちでこぼこの砂地で、小さな石も散らしてしまう未開発の土地。周辺の一戸建てを見ないかぎり、駐車場に身を置いていると、荒野にいるような錯覚に陥るかもしれない。この駐車場はまるで都市の鉄筋コンクリートに囲まれた「珍風景」であった。



 駐車場にはいつも5~6匹の野良猫が出没する。「野良」という言葉が好きである。勝手な解釈だが、野性的かつ善良な性格をもつこと。野良猫は放浪しない。駐車場は彼らの生きる場だ。彼らはあたかも駐車場の「管理猫」。駐車場には車がまばらで、5~6匹の猫が5~6台の車に寄り添う。雨が降ると猫は車の下に隠れ、冬に車の上で日向ぼっこをしながら居眠りする。



 これらの野良猫は「地域猫」とも言われる。夕方になると猫たちが必ず全員駐車場に集まり、仕事終わりの日課として、隣人たちが餌と水を猫にあげる。ある冬の夜、おばあさんが大きな魔法瓶を持ってきたのを見た。小さな鉢をいくつか取り出して地面に置き、魔法瓶から温かい牛乳をそれぞれの小さな鉢に注いだ。「寒いね。温かい牛乳を飲んで」と優しく猫たちに話しかけていた。猫たちが牛乳をおいしそうにごくごく飲む音が心地いい。それ以来、私はいつも鞄の中に猫のおやつを入れている。駐車場を通り過ぎる際、猫たちにあいさつし、おやつをあげる。猫たちはそれぞれ毛の色や性格が異なる。駐車場の地域猫のおかげで、近所の人たちがコミュニケーションを取るようになった。猫を囲んで、世間話を交える。「地域猫コミュニティー」とも言える。地域猫が地域を活性化させるといっても過言ではない。中国語の「遠親不如近鄰」は、「遠くに住む親族よりも、近隣の人の方が頼りになる」という意味。しかし、日本の都市では、引っ越してきて隣の家にあいさつした後、あんまり隣人同士で言葉を交わさない。現代社会では、多くの人が人との繋がりが持てず生きている。



 5月のある日、駐車場に「事件」が起こった。元の風景が突然消えてしまったのだ。何台ものブルドーザーがゴロゴロと音を立てて雑草や野花をつぶし、しばらくすると跡形もなくなった。駐車場が完全に変わってしまった。凹凸のある砂や土がコンクリートになり、白い直線で駐車スペースの区画ラインが引かれた。一つ一つのスペースの真ん中に1から30までの大きな数字が書かれた。



 立派な駐車場がいきなり出来上がり、駐車する車がだんだん増えてきて、自動で駐車料金が支払われる。「管理者」は必要ないので、猫たちは「職」を失った。駐車場改造は事前に「住人」である猫たちの同意を求めるべきではないか、と私は心の中で呟いた。そして、猫の居場所がなくなった。彼らは突然の変化に戸惑ったのだろう。どこかへ逃げてしまった。土と砂の匂いが完全に消された。風に揺れる野草や野花もなくなった。



 駐車場はより標準的でスタイリッシュになって、多くの車が入れられる。オーナーはより多くの経済利益を得られるだろう。それは人間社会には当然のことだが、なんだか、自然が遠ざかっていくことに寂しさを覚えた。「駐車場ではなく、公園にしたらいいな。そうしたら、猫も人間もくつろげる」と隣人たちが話し合った。しかし、何を言っても後の祭りである。それは私たちが決めることではない。現代風の駐車場に変貌することは現代文明社会の構築の縮図であろう。地球上の原風景は徐々に消え、都市の人工風景に置き換わってきた。しかもますます加速していく。ウイルスの隠れ場所すら奪われてしまって、本来動物と共に生存するウイルスが仕方なく人間の体に移る。新型コロナ時代、私たちはさらに自然や動物や人間の共存関係を考えなければならない。



 猫たちのおかげで近所の人たちが話し始め、人間同士のコミュニケーションの大切さを実感した。猫たちに感謝したい。これからも世界の片隅に君たちの安息の地が残ることを願う。

一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍