プラトン著『パイドロス』

文字を身につけた人間は
頭の中身が空っぽの偏屈者か


208時限目◎本



堀間ロクなな


 プラトンの著作『パイドロス』(紀元前370年代)に不可解な一節がある。真夏の晴れわたったある日、アテナイ郊外のイリソス川のほとりで、ソクラテスと年若い友人のパイドロスが対話をはじめる。美少年は口説かれたときに、自分を恋している者に身をまかせるべきか、それとも恋していない者に身をまかせるべきか――。こうした話柄自体、ずいぶん突拍子もないのだが、わたしが首を傾げるのはそこではなく、えんえんと議論が繰り広げられていった先に、ふいにエジプトの神話が俎上にのせられる個所だ。



 ソクラテスによれば、ナウクラティス地方にテウトという発明好きの神さまがいて、数学や天文学とともに文字を編み出しという。そして、エジプト全土に君臨していたタモス王のもとを訪れ、「この文字というものを学べば人々の知恵が高まり、もの覚えがよくなるでしょう。私が発明したのは記憶と知恵の秘訣なのですから」と披露したところ、タモス王は「正反対だろう」と応じて、こう説いたというのだ。



 「なぜなら、人々がこの文字というものを学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされるため、その人たちの魂の中には、忘れっぽい性質が植えつけられることだろうから。それはほかでもない、彼らは、書いたものを信頼して、ものを思い出すのに、自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出すようになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになるからである。じじつ、あなたが発明したのは、記憶の秘訣ではなく、想起の秘訣なのだ」(藤沢令夫訳)



 文字の利用の結果、記憶力がめっきり衰えるとは、だれでもつとに経験しているところだろうけれど、わたしにとって不可解なのは、ついに一行の文章も残さなかった師ソクラテスの口を借りてこうした見解が表明されたとき、当のプラトンはすでに余人には及びもつかないほどの大量の著作をものしていたことだ。そこには『饗宴』や『国家』などの人類文化史上の金字塔というべき作品も含まれていたにもかかわらず、あえて文字による書物への批判を開陳するとは、おのれの偉大な成果に唾する行為ではないか?



 それだけではない。さらに舌鋒鋭い糾弾が続く。



 「また他方、あなたがこれを学ぶ人たちに与える知恵というのは、知恵の外見であって、真実の知恵ではない。すなわち、彼らはあなたのおかげで、親しく教えを受けなくてももの知りになるため、多くの場合ほんとうは何も知らないでいながら、見かけだけはひじょうな博識家であると思われるようになるだろうし、また知者となる代りに知者であるといううぬぼれだけが発達するため、つき合いにくい人間となるだろう」



 なんたること! 一生懸命勉強して文字を身につけた人間とは、実は頭の中身が空っぽの見掛け倒しの偏屈者でしかないと決めつけているのだ。そのうえで、ソクラテスはパイドロスに対して、本当の知恵に出会い、みずからの魂を開発するためには、文字ではなく肉声によるディアレクティケー(対話法)の重要性を強調していく……。つまり、プラトンの著作にあっては、ソクラテスを主役に置くことで真理の言葉をめぐって文字と肉声が激しくせめぎあい、その緊張関係が壮大な哲学体系を成り立たせるエネルギーの源泉となっているようなのだ。



 それにしても、とふたたび首を傾げずにはいられない。現在、われわれがスマホやパソコンで入力しているものは、そもそも文字なのか? ことによったら、ただの電気信号であって、ソクラテスが指弾した文字ですらないのではないか。また、新型コロナウイルスへの対策として、わたしもリモート会議やらオンライン飲み会やらを体験しているところだが、これらは果たしてディアレクティケーなのか? たんにネットの仕組みに振り付けを合わせただけの、対話ごっこに過ぎないのではないか。急速に進化していくかのように見える今日の情報空間において、たとえどれほど効率的であれ、そこに言葉をめぐる厳しい緊張関係がなければわたしたち自身にとって本当の知恵が開かれるはずもないと、『パイドロス』はけたたましく警鐘を打ち鳴らしているのではないだろうか。



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍