バックヤードのけもの
大学生の頃、わたしは家電量販店でアルバイトをしていた。
バイパス通りにある、広い駐車場とワンフロアのごく普通の郊外型店舗だ。
その頃、わたしは大学4年生。就職活動の真っ最中だったが、ことごとくうまく行ってなかった。
そもそも就職氷河期で求人も少なく、自分でもやりたいことが定まっていないわたしなんかを必要としてくれる企業などどこにもなかったのだ。
メールボックスに不採用通知が溜まっていく。
「ご縁がなかったということで」「今後の活躍をお祈りしております」
ーてかなんだよ。縁だの祈りだの、そんなものの存在を大して信じてもいないくせに。
自分を全否定されたかのような、軽々しい文言に怒りそして傷つく。まるで毒の魔法をかけられたかのように、少しずつHPが削られていく。
わたしにとって就職活動はガラスの破片の上を裸足で歩くようなものだった。
無益な苦行だ。
こんな馬鹿げた苦行をいつまで続けなくてはならないのだろう。
死ぬまで?
それでも、アルバイトは楽しかった。というか、在庫商品を保管している倉庫ーバックヤードがお気に入りだったのだ。
自分でもよくわからないが、そこにいると心が落ち着き、不採用続きの就職活動も、うまく行かないプライベートも、あらゆる不安から解放されるような気持ちになったのだ。
在庫整理や掃除など、わたしはなんらかの理由をつけてバックヤードに籠った。多分、そこに漂う匂いがわたしは好きだったのだと思う。
幼い頃無邪気にはしゃいでいた草むらのような、清々しくて朗らかな香りーその時のわたしはそう感じていた。
ある日、新しく入ってきた新人パートさんとシフトが重なり、一緒に休憩時間を取ることになった。
最初は他愛もない雑談を交わしていたのだが、ふと彼女が、
「うちの倉庫、ちょっと変よね」
と言い出したのだ。
「なんか、おかしな匂いがするっていうか……気分が悪くなるのよ」
その瞬間、体中の毛が逆立つような感覚を覚えた。
「そんなこと、ない!」
わたしは怒りにまかせて大声で言った。
彼女は驚いた顔をしていたが、すぐに真顔になった。
「あなたからも、同じ匂いがする」
頭に来て、わたしはその場を去った。
どうしてこんなに腹が立つのだろう。きっと、自分の聖域を侮辱されたような気持ちになったのだ。
それからほどなくして、一日店を休業して年に一度の棚卸し作業をする日が来た。
わたしはもちろん、バックヤードの担当を引き受けた。
その当日の朝、メールボックスに先日面接を受けた企業から不採用を告げる文面が届いていた。
もう、何もかもが嫌になった。
わたしはバックヤードで作業をしながら、「このままずっと、この場所に籠っていられたらいいなぁ」
と、思った。
就活もしない、学校にも行かない、何もしないでここにいられたら……
いや、ちょっと待てよ。
その時、さすがに自分が妙なことを考えてると思い至った。
何かがおかしい。
手を止めて、わたしは倉庫を見渡した。
乱雑に置かれた段ボールの山と、埃を被ったキャビネット。壊れた蛍光灯、そして……カビ臭さと混じった、微かな獣の匂い。
どくどく、と、心臓の鼓動が早まる。
けもの?
わたしは自分がどこにいるのかわからなくなった。
ふと、端のほうに詰まれた運搬用の毛布に目が止まる。ぐしゃぐしゃに畳まれた薄茶色の塊が、もぞもぞと動いているように見えたのだ。
吸い寄せられたかのように足が勝手に動き出す。
見たくないと思っているのに、なぜか体が言うことを聞かない。
わたしは毛布をつかみ、そっとつまみあげた。
見たこともないような大きな二つの目が、こちらをじっと見つめていた。
わたしは叫んだ、と思うのだがそこからの記憶がほとんどない。
どうやら、バックヤードから出て店長に「気分が悪いから帰る」と言ったらしい。
気づいた時は自宅のベットで、親によると帰ってきてからさっさと寝てた、とのことだった。
その後もアルバイトは続けたが、以前ほどバックヤードに魅力を感じることはなかった。しかもおかしなことに、わたしが手につかんだ薄茶色の毛布は、どこを探しても見当たらなかった。
わたしは思うところあって、先日の新人パートさんに一連のことを話した。
彼女はやはり、そっち方面の感覚が鋭い人らしかった。
「今はもう、あなたから嫌な感じはしない。多分、何かと縁ができちゃったのね」
と、彼女は言った。
企業には全く縁がないのに、わけのわからない獣と縁があるとは。
なんたる皮肉だ。
その後、わたしは就活らしい就活は辞めて、図書館で働きはじめる。両立が難しくなって、アルバイトは辞めた。
わたしが実家を出てほどなくして家電量販店は潰れた。建物はそのままに、別の店が営業していたが、しばらくしてそれも潰れたようだった。
わたしが見たあの大きな目はなんだったのだろう。
今でもよくわからない。
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