コロナ禍とコロナ化
黄 文葦
「コロナ禍」という表現には感情が入れすぎるのではないか。自然災害の多い日本では、ウイルスに対し、ほかの国よりもっと凛とした姿勢で臨むべきではないか。中国語の中、「禍害」という言葉がある。人間社会の災いを形容することが多く、災いをもたらす人と事を指す。例えば、中国の「文化大革命」は確かに国家の「禍」である。
ただ、今回の新型コロナを「禍」と視すると、感染された人が被害者なのに、ウイルスと一緒に「敵」と見なされてしまう恐れがあるのではないか。コロナに感染した有名人や所属団体から相次ぐ「謝罪」に対しても違和感を禁じ得ない。感染者には罪がないし、ウイルスにも罪がない。
新型コロナ感染拡大の中、「コロナ禍」という言葉によって、感染者にさらなる精神的なプレッシャーを与えてしまったではないかと感じる。中国では、感染者の苗字・年齢・性別・おおよその家と職場の住所・移動につかった乗り物等が政府広報メディアに公開されている。皆が感染者のいた場所に恐怖を抱き、極力避けようとする。ウイルスと感染者を「禍」・「害」と扱うと、社会の分断が起きやすい。
「コロナ禍」より、むしろ「コロナ化」のほうがずっとふさわしいと言わざるを得ない。世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長は7月31日、新型コロナの世界的大流行は「100年に一度の公衆衛生上の危機だ。影響は今後数十年に及ぶ」と警告した。さらに、テドロス氏は「抗体検査の初期段階の結果は、世界人口の大半がウイルスに感染しやすいことを示している」として、集団免疫獲得には程遠い現状を伝えた。
今年の春、「夏になったら、収束するだろう」と思われていた新型コロナが、夏にますます感染拡大の模様をみせている。まさか、未知の狡猾なウイルスなので、これからどうやって「コロナ化」に向き合うのか、考えなければいけない。
「未知の新型ウイルスとの共存」を前提にした新型生活様式と新型価値観を築くことが現代人の急務である。映画監督の北野武さんは先日、マスコミに「『陽性』前提に生きる」と語った。私たちが今、すでに「日常」と「危機」、「陰性」と「陽性」の間に徘徊しているかもしれない。
過去の30年、日本には「平凡な平成時代」を過ごし、中国は改革開放・高速経済成長を果たした。いずれもおおよその平和な時間を過ごした。人類歴史の中、繁栄な盛世(せいせい)と騒動などの絶えない乱世(らんせい)を繰り返す。
百年人生、ずっと平和であることは不可能だろう。乱世に適応するこころの準備も必要であるかもしれない。
「コロナ化する社会」「コロナのグローバル化」がなりつつある。私たちのこれからの人生をずっと「禍」を背負うわけではなく、自然災害に面するように、勇気と知恵を絞り出したい。
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