『更級日記』
夫に対するこの素っ気ない
筆致はどうしたことだろう?
214時限目◎本
堀間ロクなな
どうもわからない。たとえば、高齢者施設でじっと寡黙な車椅子生活を送っている女性たちも、実はひと知れずこうした追憶を紡いでいるのだろうか。『更級日記』は、そんな疑問をわたしに抱かせる。平安時代のなかごろ、菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)が夫に先立たれ、子どもたちが去ったのちの孤独な日々のなかで、これまで自分が辿ってきた道のりについて折々歌を差しはさみながら回顧したものだ。
文学少女、それも筋金入りの、と言っていいだろう。受領の父親のもとに生まれ、幼くしてその赴任先の上総国(千葉県)で過ごしながら、当節、都で大評判だった「光源氏」のロマンに憧れて、ぜひとも手に入れたいと神仏に祈っていたところ、13歳の年に父親の帰任によって京へ移り住むことになったばかりか、気さくな叔母から『源氏物語』の全巻をプレゼントされるのだ。そのいきさつを綴った筆の躍りようと言ったら!
はしるはしる、わづかに見つつ心も得ず心もとなく思ふ源氏を、一の巻よりして、人もまじらず几帳の内にうち臥して、引き出でつつ見るここち、后の位も何にかはせむ。
平安の貴族社会において、木っ端役人の小娘が「皇后の地位だってどうってことない」とはおよそ大それた物言いだろうが、実際、約40年におよぶ半生記のなかで、これほどあからさまに歓喜を爆発させた例は他にない。ひとは年齢を重ねるにつれて、昔日のことは思い出しても最近のことは忘れてしまう、とはよく言われるところだけれど、男性よりずっと感受性に長けた女性にあっては、ことほどさように、ときに10代前半で人生最高の喜びを味わって、その記憶を後生大事に長い歳月を生きていくものらしい。
そんなふうにロマンの世界に溺れたわが身のオタクぶりを、著者はさすがに恥じ入り、みずからを繰り返し戒めるのだが、夢見がちな性向は以後もかなりのあいだ尾を引いたようで、当時としてはずいぶんと遅く33歳の年に受領の橘俊通(たちばなのとしみち)と結婚。やがて夫が下野国(栃木県)に単身赴任すると、気が進まないながら宮廷に出仕して間もなく、いきなり筆致が艶やかさを帯びる。そのとおり、「光源氏」と出会ったのだ。季節は10月上旬、時雨(しぐれ)そぼ降る夜の語らいに興じたのち、翌年8月に再会を果たした際に、相手から「時雨の夜こそ、片時忘れず恋しくはべれ」と言い寄ってきたのに対して、つぎの歌を贈っている。
何さまで思ひ出でけむなほざりの
木の葉にかけし時雨ばかりを
その「光源氏」とは貴顕の源資通(みなもとのすけみち)だ。「ほんの木の葉に降りかかる時雨ほどのお気持ちであったでしょうに」と拗ねてみせつつ、そこには抑えようもない胸騒ぎが容易に見て取れよう。ただし、かつて『源氏物語』全巻を手にした少女時代の熱狂とは別ものだ。すでに三十路なかばの人妻の身であるうえ、相手は名うてのプレイボーイと知れわたっているからには、しょせん戯れに過ぎない。戯れに過ぎないとわかっていても、確かにそれはたった一度だけ燃え上がった真紅の恋の焔であったことを、晩年の著者は心静かに噛みしめているのだ。
かくして、わたしは大きく首を傾げずにはいられない。それは、この『更級日記』に書かれていることではなく、書かれていないことに得心がいかないからだ。菅原孝標女はおのれの半生を振り返って文章にしたためるにあたって、最も身近なはずの夫や一男二女の子どもたちに関してまったくと言っていいほど触れていないのである。かろうじて書きつけられた夫との死別の模様さえ、こんな具合だ。
九月二十五日よりわづらひ出でて、十月五日に夢のやうに見ない(し)て思ふここち、世の中にまたたぐひあることともおぼえず。
どうしたことだろう。あまりにも素っ気ない筆致ではないか。まるで人生の終盤においては現実の夫や子どもより、遠い過去に出くわした「光源氏」のほうがずっと重大だとでも言いたげではないか。こうした感受性は、平安の宮廷社会の女房ならではのものなのか、それとも今日の高齢化時代を生きる女性たちも……? どうもわからない。
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