太宰 治 著『新釈諸国噺』
空襲のもとで発揮された
尋常ならざる力業がもたらしたもの
226時限目◎本
堀間ロクなな
途方もない災厄によって、わたしたちの気持ちは挫かれるばかりでなく、ときには逆にカツを入れられることもあるようだ。2011年3月11日の東日本大震災の発生直後、電力の供給不足から拙宅の位置するエリアではたびたび「計画停電」が実施されて、夜ともなると、あたりはすっかり闇に包まれ、暖房のない部屋で懐中電灯をたよりにコンビニ弁当をつつくしかないという心細さだった。そんな状況下で、老親の面倒を見ている近くの友人と会ったときに「大丈夫かい?」と尋ねたところ、相手は「それがさ、いつもはぼんやりしているオヤジたちがシャンとして、真っ暗なのに『わしらは空襲を経験しとるから』といやに張り切ってさ」と笑ったものだった。
そんなエピソードを持ち出したのは、どうやら稀代の軟派作家・太宰治に対しても、太平洋戦争が同様の効果を及ぼしたらしいからだ。1945年(昭和20年)1月というから、当時、かれが住んでいた東京・三鷹界隈でもしばしばB29の空襲があったころに『新釈諸国噺』が出版されて、その前段にはこう記されているのだ。「この際、読者に日本の作家精神の伝統とでもいうべきものを、はっきり知っていただく事は、かなり重要な事のように思われて、私はこれを警戒警報の日にも書きつづけた。出来栄はもとより大いに不満であるが、この仕事を、昭和聖代の日本の作家に与えられた義務と信じ、むきになって書いた、とは言える」。いやはや、またずいぶんと気負った文章ではないか。
これは、太宰が「世界で一ばん偉い作家」と見なす江戸元禄期の井原西鶴のあれこれの著作から、十二の短篇をピックアップして「それにまつわる私の空想を自由に書き綴り」一冊にまとめたというもの。わたしはかねて、この作家はおのれの私生活を踏まえた独白的な作品よりも、お気に入りの元ネタを「本歌取り」してふくらませた二次創作のほうが巧まずしてゆとりとユーモアを湛えていて好みだ。西鶴と太宰という時代も文化もまったく異にしながら日本文学史上に特筆大書されるふたつの才能がひとつに融合を遂げた、その意味では世にも贅沢な作品集と言えるのかもしれない。
まあ、能書きはさておき、そのめざましい成果の見本として「猿塚」の一節を引いてみたい。西鶴の『懐硯(ふところすずり)』中の「人真似は猿の行水」をもとづくもので、筑前の国・太宰府で酒屋を営む大金持ちにお蘭という美貌の娘がいて、どうした弾みか、さしたる取り柄もない質屋の若旦那の次郎右衛門と好きあって、ついには両親の反対を尻目にふたりは手に手を取って駆け落ちする。律儀な猿を下僕代わりにともなって行き着いた先は、博多の海を遠望する鐘が崎の知り合いの家の納屋。おたがい愛し愛され夢見心地で暮らしはじめたが……と、このあとに続く個所をまずは西鶴の作で示そう。
ありしにかはる賤(しづ)の手業は恋よりおこりて、此日かげに身をちゞめ、様をやつし、次郎右衛門はたばこを刻めば、お蘭は木綿の枷といふものをくりて、渡世とするも、二人かく和理(わり)なきかたらひと思へばこそ一日もくらさるれ、浅ましきありさま。
ほんのこれだけの記述が、太宰の手にかかるとつぎのようになる。
いかに世を忍ぶ身とは言え、いつまでも狭い納屋に隠れて暮しているわけにも行かず、次郎右衛門はさらに所持のお金の大半を出してその薄情の知合いの者にたのみ、すぐ近くの空地に見すぼらしい庵を作ってもらい、夫婦と猿の下僕はそこに住み、わずかな土地を耕して、食膳に供するに足るくらいの野菜を作り、ひまひまに亭主は煙草を刻み、お蘭は木綿の枷というものを繰って細々と渡世し、好きもきらいも若い一時の阿呆らしい夢、親にそむいて家を飛び出し連添ってみても、何の事はない、いまはただありふれた貧乏世帯の、とと、かか、顔を見合せて、おかしくもなく、台所がかたりと鳴れば、鼠が、小豆に糞されてはたまらぬ、と二人血相かえて立ち上り、秋の紅葉も春の菫も、何の面白い事もなく、……
まさしく独壇場か。世界はふたりのもの、といった浮かれ気分で日々の生活に入ってみれば現実の前にあっさりと色褪せていく。どの夫婦でもかつて身に覚えがあるはずの、そんな男女の可笑しくも哀しいありさまを表現して、およそ太宰の右に出る者はいないだろう。西鶴と四つに組んだ「本歌取り」の手並みに、われわれはただ口をあんぐりと開けていればいい。この一篇は、次郎右衛門とお蘭を見舞うさらに無残な現実を描いたのち、最後は「ふたたび、庵に住むも物憂く、秋草をわけていずこへとも無く二人旅立つ」と結ばれている。もしこうした力業が連夜の空襲のもとでこそ発揮されたとするなら、わたしは戦争というものに対してもいくばくかの価値を認めないではいられないのである。
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