モーパッサン著『首飾り』
0.016%の罠に
絡め取られないために
229時限目◎本
堀間ロクなな
0.016%――。NHKのニュースでその数字が伝えられたとき、不謹慎ながら大笑いしてしまった。経営破綻した健康器具販売会社「ジャパン・ライフ」の債権者集会において元会長の個人資産が202万円と報告され、これによる返済の債権総額に対する比率だという。これほど小さな数値がしかつめらしく報道されることは滅多にあるまい。もし液体の量に譬えるなら、コップ1杯と一升瓶約700本の対比となる計算だ。文字どおり焼け石に水にすぎず、詐欺まがいのオーナー商法に出資させられた債権者にはまことに気の毒な事態だが、そこにはそれなりの欲得づくの動機があったわけで、わたしは人間の欲望をもてあそぶカネという罠の不気味さを見る思いがした。
そこで脳裏を去来したのは、ギ・ド・モーパッサンの有名な短篇小説『首飾り』(1884年)だ。
花の都パリの片隅で、ロワゼル夫人は平役人の夫とつましく暮らしていたところ、ある日、どうした風の吹きまわしか大臣官邸のパーティへ夫婦で招待されることに。なけなしの貯金をはたいてドレスを新調し、裕福な友人からダイヤモンドの首飾りを借りて出席してみると、輝くばかりの美しさの夫人は、大臣をはじめ紳士たちの注目を集めて、お世辞に酔い痴れ、誘われるままにワルツを踊る。そうやって夢見心地の一夜を過ごしたのち、夫婦で明け方に家へ帰ってみたら、首に巻いていたはずの首飾りが消えていた。ふたりは血眼になって探しまわったものの徒労に終わる。かくして、ロワゼル夫人はあらゆる手を使い高利貸しからも借金して3万6000フランをかき集め、同じダイヤモンドの首飾りを買い求めて友人には黙って返却した。以後、ひたすら身を粉にして10年間で負債を完済したあとで、初めて友人にことの真相を伝えると、相手は驚愕して両手を掴んできて告げた。「可哀相に、あの首飾りはせいぜい500フランの偽物だったのよ」と……。
このどんでん返しの結末は、カネのせいでせっかくの美貌と人生をフイにした女主人公の哀れさを浮き彫りにして、これまで多くの読者を唸らせてきた。その手際があまりにも鮮やか過ぎて、夏目漱石などは逆に「最後の一句は大に振ったもので、定めてモーパッサン氏の大得意な所と思われます。軽薄な巴里の社会の真相はさもこうあるだろう穿ち得て妙だと手を拍ち度(たく)なるかも知れません。そこが此作の理想のある所で、そこが此作の不愉快な所であります」(『文芸の哲学的基礎』)と苦言を呈しているくらいだ。その指摘には一理も二理もあるにせよ、しかし、ここに見えるのはたんに軽薄な社会の真相だけだろうか? 文芸作品であれば多様な読み方が許されるはずで、わたしは畏れ多くもあえて文豪に対して異を唱えてみたい。
借金返済のために貧窮生活を過ごしたあとのロワゼル夫人について、モーパッサンはこんなふうに描写している。
「今では、ロワゼル夫人はおばあさんのように見えた。貧しい家庭によく見られる、てごわくて、頑固で、荒っぽい女になっていた。髪の毛はろくに櫛もいれず、スカートが曲がっていようとかまわず、手を赤くし、大声でしゃべり、床を水でじゃぶじゃぶと洗った。しかし、夫が役所に行って留守の折りなど、時には、窓辺に座り、自分があんなにも美しく、あんなにもちやほやされたあの日の夜会のこと、あの舞踏会の夜のことを思い出すのだった」(高山鉄男訳)
確かに無残なばかりの痛ましさではあっても、これは果たして人間として恥ずべき姿だろうか。むしろ、カネのせいでどん底に落とされながらも顔をそむけずに、最後まで現実と向きあってみずからの責任をまっとうした、すなわち、カネというものについに打ち勝った人間の崇高な姿ではないか。もしロワゼル夫人のこのありさまを疎んじて、にわかにあつらえたパーティドレスをまとい、偽物のダイヤモンドの首飾りを身につけて、きらびやかに紳士連中の甘言を浴びながら生きていくほうが望ましいと考えるなら、ときには0.016%という数値さえ突きつけてくる罠に金輪際絡め取られてしまうに違いない。カネに対して、人間の尊厳を示すものこそ「てごわくて、頑固で、荒っぽい」態度だと思うのだが、どうだろう?
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