ハンス・ホッター歌唱『冬の旅』
空襲下のベルリンで行われた
奇跡的な歌唱の記録
230時限目◎音楽
堀間ロクなな
陰々滅々という形容が音楽になされるとしたら、その筆頭に指を折るべきは『冬の旅』だろう。フランツ・シューベルトが1827年、同世代の詩人ヴィルヘルム・ミュラーの作品に曲をつけた24曲からなる連作歌曲集で、失恋の痛手を負った青年が冷たい木枯らしの吹きすさぶ街道をひとりさまよう情景を描いている。そうした内容もさることながら、当時30歳だったシューベルトは梅毒とその治療にともなう水銀中毒で苦痛にあえぎ、モーツァルトやベートーヴェンに匹敵する才能を持ちながら志なかばにして翌年には死を迎えるという、そんな作曲者のぎりぎりの心境が反映して、ここまで容赦ない絶望の音楽が書きつけられたのだろう。
であれば、わたしはそれをオブラートにくるんだり、知的な解釈を施したりして耳ざわりよく和らげてしまうよりも、真正面から絶望を凝視してうたわれるほうが適っているように思う。その意味で『冬の旅』の最もふさわしい再現はわたしの知るかぎり、ドイツのバス・バリトン歌手、ハンス・ホッターが第二次世界大戦中の1942~43年にミヒャエル・ラウハイゼンのピアノ伴奏でうたったものだ。伝えられるところによると、このレコードが録音されたのは連合軍の空襲下にあったベルリンのことで、しばしば防空壕に避難しながらの作業だったらしい。まさしく眼前で祖国が瓦礫の山と化していき、明日をも知れない状況に置かれていたからこそ、こうした奇跡的な歌唱が残されたのに違いない。
市門の前の泉のほとりに
一本の菩提樹が立っている。
その枝かげで私は夢みた、
数々の甘い夢を。
あまりにも有名な第5曲「菩提樹」の導入部だ(西野茂雄訳)。『冬の旅』で初の長調として現れる郷愁の歌も、ここでは悲痛な陰りを帯びて、枝の葉ずれを模したせわしない伴奏に引きずられるように、かつて恋人と交わした甘美な思い出さえいまは自分を責め苛む心象風景がうたい出される。ちょうど作曲当時のシューベルトと同じぐらいの年齢だっただけに、ホッターの感情移入にはひときわ激しいものがあったろう。夜のしじまのもとで菩提樹の追憶をめぐって最後につぎのように結ばれるとき、そこには自死へのやみがたい誘惑の響きが聴き取れるのだ。
いま、私はあの場所から
ずいぶん遠ざかっているのだが、
それでも私は絶え間なく聞くのだ、
「あそこに安らいがある」とささやく声を。
大戦終結後、ホッターは40代に差しかかると重度の発声障害に見舞われたものの、これを克服して、1950年代には再開されたバイロイト音楽祭を中心にリヒャルト・ワーグナーのオペラの主要なバス・バリトンの役で名声を博し、とりわけ『ニーベルングの指環』における主神ヴォータンでは他の追随を許さない絶対的な存在感をもって君臨した。天上の神々と、地上の人間と、地下の侏儒とが三つ巴の権力闘争を繰り広げる壮大なドラマにあって、そのいっそう深みを増した歌唱はワーグナーが本来構想していた荒ぶる神とは異なり、生きとし生ける者どもの宿命に対してかぎりない慈愛を迸らせたもので、わたしもレコードを聴きながら膝下にひれ伏したい思いに駆られるのがつねだった。
ホッターが2003年に94歳の天寿をまっとうしたのち、現在に至るまでかれが演じたヴォータンの玉座に迫る歌手は出現していない。その神がかった歌唱の秘密を解き明かす鍵は、空襲下のベルリンで世界の終末を目の当たりにしながら、モーツァルトやベートーヴェンではない、シューベルトの底知れぬ絶望に寄り添った体験にあるのではないか、とわたしは考えている。
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