ブーバー著『我と汝』
イエス・キリストか
それとも一本の樹木か
241時限目◎本
堀間ロクなな
マルティン・ブーバー著『我と汝』(1923年)の岩波文庫版には、のっぴきならない思い出がふたつある。
ひとつは、高校時代の友人にまつわるものだ。至って平凡なラチもない青春をともに過ごした間柄だったが、卒業して30年ほど経ったころ、かれから手紙をもらった。東京都下のプロテスタント系の教会で副牧師となり、来週の日曜日に説教をするので、よかったら聞きに来てほしい、という。わたしは過去に教会へ出かけたことがあったものの、そこに集う会衆のいかにも善良そうな顔つきを目にすると、俗塵にまみれたおのれの浅ましさにいたたまれない思いをするのがつねで、もう久しく足が遠のいていた。しかし、アイツが一体どんな説教をするのやら興味が湧いて重い腰をあげたのだった。
教会の高い壇上で黒服をまとったかれが何を語ったか、覚えていない。わたしの胸にグサリときたのは、集会が終わったあと、ふたりでお茶を飲みながらしゃべったときの相手の発言だ。どうして伝道師になったのか、と訊ねたところ、きみが『我と汝』の文庫本を貸してくれたのがきっかけだよ、との答えだったのだ。椅子から転げ落ちかけたくらい驚いた。まったく忘れていたからだ。そう言われてみると、確かにあの当時この本に入れ込んで、だれかれかまわず周囲に吹聴した記憶がある。それにしても、と反省した。なんと恐ろしいことだろう、自分の無頓着な行為がひとの人生を左右してしまうなんて……。
「世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる」
この文章から『我と汝』は始まる。ふたつの態度とは、ふだん日常的に経験する〈われ-それ〉の関係と、自己を世界の深奥に向けてまるごと投げ出す〈われ-なんじ〉の関係であり、後者の態度を取ることによって、初めて〈われ〉は〈われ〉としてありうる。すなわち、ひとはただひとりでぽつんと存在するのではなく、世界とのあいだに深い関係を結んで生きることができるというのだ。あのころ、フランスのサルトルやカミュらの無神論的実存主義が孤独や絶望を突きつけたのに対して、このオーストリア出身のユダヤ系宗教学者が唱えた「世界との対話」の哲学は有神論的実存主義と称され(いまにしてみれば、そうしたレッテル貼りに大した意味がないとわかるのだが)、素朴なティーンエイジャーの血潮を高ぶらせる力があったのだろう。いや、現在だってその詩的な文章はわたしの心拍数を速めないではいない。
「愛にともなう感情は非常に多くの種類を含む。悪霊にたいするイエスの感情は、弟子にたいする感情とはまったくちがったものである。しかし愛は一つである。感情は〈所有されるもの〉であり、愛は生ずるものである。感情は人間の中に宿るが、人間は愛の中に住む。これは比喩ではなく、現実である。愛は〈われ〉につきまとい、その結果、〈なんじ〉をただの〈内容〉や、対象としてしまうようなものではない。愛は〈われとなんじ〉の〈間〉にある。このことを知らぬひと、自己の存在でもって、これを認めようとしないひとは、たとえ、ものを感得し、経験し、楽しみ、表現する感情を愛であると主張しようとも、愛を知らぬひとである」
この本をめぐるもうひとつの思い出は、訳者の植田重雄に関してのことだ。大学に入ってみたらなんと、わたしにはまばゆいばかりの名前の人物が教養課程の「倫理学」を担当していたのである。もとより、有頂天で馳せ参じたのは言うまでもなく、かつ、こうした場合に予測されるとおり、最初の授業でがっかりしてしまったのも言うまでもない。岩波文庫のあの熱を帯びた訳文からはほど遠い、ルーティンの白けきった講義としか受け止められなかった(いまにしてみれば、ひとりよがりの哲学ごっこに興じる幼稚な学生相手に熱弁をふるいようもなかったとわかるのだが)。
しかし、以下の話は強く印象に刻まれている。前後の脈絡は失念したものの、植田教授が教室の窓際に立ってふと、きみたち、樹木と対話したことはあるか? と語りかけてきた。樹齢何百年という木に出会ったら、その幹に耳をつけてごらん、自然の温もりが伝わってきて、内側では樹液の流れる音が聞こえるから、と――。おそらく、そのひと言はわたしにとって啓示だったろう。世界と〈われ-なんじ〉の関係を結ぶにおいて、一本の樹木がイエス・キリストに匹敵することを教えてくれたのだから。
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