伊藤大輔 監督『王将』

将棋がまだ
人生のドラマだったころ


249時限目◎映画



堀間ロクなな


 一体、いつからだろう、将棋・囲碁をめぐって年齢や記録ばかりが関心の的となったのは。それも政治経済のニュースと並んで、テレビ・新聞のトップを飾って報道されるありさまに、わたしのような門外漢は面食らってしまう。しょせん遊戯の話ではないか。むろんのこと、当の少年少女は天才と呼ぶにふさわしい能力の持ち主であり、大いに将来が嘱望されるのであろうが、そうであれば、この歴史的転換期ともいえる時代にせっかくの才能を遊戯などに費消するのではなく、もっと現実に役立つ技術革新や社会福祉のために発揮してもらいたいと思うのだけれど……。



 そんなへそ曲がりなわたしでも、明治の大阪が生んだ型破りの棋士・坂田三吉の半生を伊藤大輔監督が描いた『王将』(1948年)にはあっさり脱帽する。敗戦後間もない時期のこと、大映社長をつとめていた菊池寛が将棋は映画にならないと反対し、占領政策にあたるGHQ(連合国軍総司令部)が戦前をテーマとする映画には厳しく目を光らせていたという条件のもとで、しかもことのほか将棋や囲碁、麻雀、競馬、パチンコなどの勝負事を嫌っていた伊藤監督があえて取り組んだのは、三吉の生きざまによほど惚れ込んだからだろう。それが証拠に、以後も二度にわたりメガホンを取って再映画化・再々映画化しているくらいだ。



 物語は、明治39年(1906年)にはじまる。「天王寺の三やん」こと三吉は、長屋の貧乏暮らしで草履づくりを生業としながら、素人将棋に血道を上げ、「妙見はん」を信心する妻・小春の仏壇や、娘・玉江の晴れ着まで質に入れて将棋大会へ繰り出す始末。小春は玉江を連れて鉄道自殺までしかけるが、妙見はんのお告げで思いとどまり、土下座する夫に向かって、どうせやるなら日本一の将棋指しになりなはれ、と励ます。かくて職業棋士となった三吉は破竹の勢いで頭角を現し、大正8年(1911年)、ついに宿命のライバル・関根金次郎八段との対決の日を迎える……。



 主役の阪東妻三郎は明治34年(1901年)生まれで、同じ時代を生きてきただけに、あたかも三吉そのひとのように喜怒哀楽を露わにする。将棋の駒を手にしたときの無邪気な喜び、かけがえのない妻子を裏切ってしまう哀しみ、また、盤上の真剣勝負に臨むにあたって一切の感情を殺した静けさ――。やがて、関根八段との対局で劣勢に追い込まれながら「2五銀」の奇手に打って出て勝利したときの有頂天ぶり、その手筋を娘の玉江から批判されて大立ち回りを演じたのちに、



 「わいはハッタリで関根に勝ったんや!」



 と、ついにおのれの卑劣さを認めた表情の凄まじさ、そこには鬼気迫る狂気さえ滲んでいた。こうした演技で阪妻にかなう俳優は存在しないだろう。そして、わたしだけではあるまい、三吉の無惨な姿を前にして震えに襲われるのは。だれだってこれまでの人生で、自分でも認めたくないほど恥ずかしい振る舞いで急場を凌いだ記憶を必ずどこかにしまっているはずだから。



 のちに伊藤監督が制作した三度目の映画(1962年)では、主役を三国連太郎が演じ、前年に発表されてヒット中だった村田英雄のうたう『王将』が華を添えた。この歌にはわたしも思い出がある。旧都庁跡に1997年東京国際フォーラムがオープンした際、記念行事の一環で上演された斎藤憐作『カナリア 西條八十物語』の舞台を観たのだが、終幕のクライマックスで、細川俊之扮する晩年の八十のもとへレコード会社の幹部が訪れて強引に坂田三吉の資料を置いていき、それをひもといた詩人が無頼の棋士とみずからの人生を重ねながら「吹けば飛ぶよな将棋の駒に」の詞を紡いでいく場面に、不覚にも声をあげて泣きじゃくってしまった。



 人生のドラマがまた別の人生のドラマと共鳴しあって、有名無名を問わず、水面の波紋のようにつぎつぎと連なっていく。ひとは決して孤独ではない。それこそが何よりのビッグ・ニュースだろう。天才少年少女の年齢や記録にケチをつける道理はないし、将棋や囲碁に対して目くじらを立てるいわれもない。もはやそこに人生のドラマを見ることも、その葛藤に共感することもやめてしまったらしい、われわれの問題なのだと思う。



一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍