「人間は退化した?」

一号館一○一教室スペシャル企画『身のまわりの進化と退化』

石川龍


「現代人は、平安時代のなま女房ほどにも無常という事が分かっていない。常なるものを見失ったからである」
小林秀雄の「無常という事」の一文だ。無常という事は、すなわち色々な物事は移り変わっていき、永遠に続くものなどないという事だ。人生を送る上で理解しておかなければならない事だと思うのだけど、それを現代に生きる僕たちは理解できていないらしい。それどころか、逆の概念の「常」つまり永遠に変わらない普遍的なものや考えについても「見失っている」らしい。どうもこの文章だけ見ると、人間は千年前より退化してしまった、と小林さんは言っているみたいだ。
これは本当なのだろうか。本当だとしたら、なんのために生きているのかさえ疑問になってくる。
 
僕自身は普段生活していて、進歩しているとも退化しているとも思ったことはないけれど、誰だって年齢を重ねて成長したいとは思うだろうし、僕も同じだ。それでも自分自身のだらしなさや心の弱さが邪魔をして、成長という程でもなく、そこそこの困難と向き合いながら生活を送っている。
そんな生活を送っている中でも、なんとなく、何かが良くなっているように錯覚させられることがある。代表的なものだと感じるのが、色々な技術だ。ここ15年程でも身の回りの色々なものが本当に便利になった。リモートツールが作られて、在宅勤務もできるようになった。銀行で長い時間待たなくてもお金が引き出せるようになった。新しい洗濯機は、乾燥までやってくれるので家事に大助かりだ。スマートフォンを使えば、職場のコミュニケーションもバッチリ!面白いスタンプで文字入力もいらないね。これはとっても素晴らしいことなのだけど、確かに少し考えれば人間自身が進化・成長している訳でもないことは分かる。
2020年はSNSの誹謗中傷で多くの人が自らの命を絶ってしまった。とても悲しい。でも、実は似たようなことは昔からあったみたいだ。もっと直接的な嫌がらせやいじめを苦にして自らの命を絶った人は一昔前もいた。僕が学生時代を送った20年前にもあった。残念ながら、本質的なことは同じようなものなのだろう。もしかしたら、便利な世の中になっても、根本的なことはあまり変わっていないのかも知れない。
どうにも、人間が賢くなって進化することと、技術や文化が進むことは違うようだ。
良くも悪くも人は変わらずにはいられないけれど、技術や文化の進歩と人間自体の進歩を混同するとまずいことになるようだ。
僕もこれからは、少しでも「自分や周囲にとって良いか」を基準にして考えようと思う。もちろん完璧にできようもないけれど、それを念頭に置いて生きていけば、少しは良い生き方ができるんじゃないかと思うのだ。まずは、安易に外側を充実させることで満足しないことから始めてみよう。
いくらコミュニケーションが取りやすくても、SNSで発信した言葉が、誰かを傷付けてしまったらまずいじゃないか。
音楽が定額で聴き放題になったら嬉しいけれど、お小遣いをためて一枚のCDを買う喜びには勝てないかも知れないじゃないか。
やらしい動画が見放題になっても、見過ぎてダメ人間になってしまったらまずいじゃないか。
とまあ、自分にとって周囲にとって、本当に良いことを考えていくのは大変だ。めんどくさそうだ。でも自分にとって、大げさに言えば人類にとって良いことだと思えば、意外と楽しそうだ。

一号館一○一教室

とある大学の学生記者・カメラマンOB・OGによる先駆的Webマガジン     カバー写真:石川龍