チェーホフ著『ねむい』
呪文は
「スパッチ・ホーチェッツァ」
274時限目◎本
堀間ロクなな
「スパッチ・ホーチェッツァ」
一種の呪文のようなものだ。わたしは毎朝、この言葉をそっとつぶやいて目をつぶるのが習慣となっている。
現下のコロナ禍によってもたらされた恩恵のひとつに、JR中央線上りの通勤電車で座れるようになったことがある。それまでサラリーマン生活40年のあいだ、春夏秋冬ぎゅう詰めの車内で吊革にすがりつき、これが人間でなく家畜だったら動物愛護団体から抗議がくるに違いない境遇に置かれてきたのが、昨春初めて緊急事態宣言が発令されて以来、めっきり乗客数が減って、1時間近くの車中のまるまるではなくとも半分くらいは優雅に腰かけて過ごせるのが当たり前とは望外の事態だった。
そうなってみると人間とは弱いもので、車内では立ったほうが健康にいいとわかっていても、目の前の席が空けばこれ幸いと腰かけずにはいられない。腰かけたら腰かけたで落ち着いて読書にいそしむつもりでいたのに、尻の下のシートが妙に生温かいせいもあってついウトウトする。そのうち座席についたとたん、条件反射のように睡魔に身を任せてしまうのがつねとなり、そこで冒頭の呪文を口ずさむのだ。
ロシア語で、ねむい、という意味。アントン・チェーホフはこれをタイトルに使った短篇小説(1888年)を書いて、わたしは大学の授業でそれを原文で読んだことがある。もとより、テキストの文章のほうはとっくに忘却の彼方に消え去ったが、上下の唇を弾いて発音するタイトルだけがなぜか脳裏にこびりついた。
筋書きはごくシンプルだ。13歳の少女ワーリカは子守りとして靴職人の家に雇われている。すっかり夜も更けて、いまだに泣き止まない赤ん坊の揺りかごを動かしているけれど、まぶたが重くなるのをどうすることもできない。万一眠り込んだら主人夫婦から折檻されるのは重々わかっていても、少しずつ少しずつ首が垂れてくる。そんな夢現の境地のありさまをチェーホフの筆はこう描く。
燈明がまたたく。みどり色の光の輪と影が、また動きだして、ワーリカの半びらきの、じっとすわった眼へ這いこむと、はんぶん寝入った脳みそのなかで、もやもやした幻に組みあがる。見ると、くろ雲が、空で追っかけっこをしながら、赤んぼみたいに泣いている。そこへ、さっと風が吹いて、雲が消えると、ワーリカには、いちめんぬかるみの、ひろい街道が見えだす。街道には、荷馬車の列がつづき、背負い袋をしょった人たちがよたよた歩いて、何やら物陰が行ったり来たりしている。両側には、冷たい、すごい霧をとおして、森が見える。と急に、背負い袋と影をしょった人たちが、ぬかるみの地べたへ、ばたばた倒れる。――『どうしたの?』と、ワーリカが聞く。――『寝るんだ、寝るんだ!』と、みんなが答える。そしてみんな、ぐっすり寝入る。すやすや眠る。
(神西清訳)
どうだろう? だれしも眠気と格闘しつつ、こうした光景を垣間見た覚えがあるのではないか。わたしなんぞ、いま文章を書き写していても頭の芯が痺れて、たちまちキイボードをまさぐる指先がもつれるのを実感した次第。かつて大学の教室で、ロシア文学史上屈指の短篇の名手ならではの技と出会って、すこぶる感じ入ってからは、思いがけず眠気に襲われてあえなく屈服するというたびに、脳裡にこびりついたロシア語が自然と浮かび上がって言い訳代わりに口ずさむクセがついたようだ。
それにしても、われながら心身のつくりがよほど環境に順応しやすいらしい。この1年、通勤中のわずかな睡眠に馴染んで、今度はそれが叶わないと心身が猛烈に欲求不満を訴えてくる。ときあたかも春眠暁を覚えずの時候を迎えて、世間の自粛疲れからか通勤電車もふたたび混みあいだして、えんえん吊革を手に突っ立っているうち、まさにワーリカが体験したごとく頭のなかで「緑色の光の輪と影」がグルグルと動きはじめる。そして、ようやく眼前の乗客が座席から立ち上がって、そのあとによろめくように座り込むなり、呪文を口にして目を閉じるのだ。
やがて永遠の眠りにつくときにも、わたしは最後の息でそっとつぶやく気がする。「スパッチ・ホーチェッツァ」と――。
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